硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

はしごの先

歯医者。抜髄したところの治療は終わって、他の部分の治療も少しやってもらった。歯そのものは合っていたから大丈夫かと思ったら、同じ歯に二か所虫歯があって、表面の軽い方を治療してもらっていたらしい。染みるのに削っている時に痛くないはおかしいなと思ったけど、まさかもう一か所あるとは。他の歯の被せ物が取れているところも忘れられていて、レントゲン撮ったはずなのに、これで治療は終わりですって言われた。ちゃんと言って継続してもらうようにしたけど。印象論だけど、治療ってあんまり実入りがないのかなと感じた。それよりも定期健診とか指導みたいなものの方が補助多く出るし楽だしっていう予想。単なる主観に基づくものだけど、何年か前行ったときのこの先生はもっと積極的だった気がする。多分覚えてもらっていないけども。

 

さておき。

 

なかなか緊張してきた。公募の連絡は明日だし、日曜日は試験だし、その次の日から新しい仕事だし。我ながら詰め詰めだけど、緊張感がある方が生きているような気がする。刺激っていう意味ではインスタントなものに流れても良かったし、流れていた時期もあったけど、どちらかというと前者の方が変人指数は高い。閉じる方向と広げる方向。両方向の性質を持っているのが人間だろうけど。買い出しに行って帰ってきたらくだんの午前3時洗濯機の隣人の部屋から何かを炒めてそうな音が聞こえていて、ほっこりした。料理は炒めるのが基礎だし、そうやって拡げていくと良いなと。ほんとうは実家でも家事をやっていたかもしれないけど、あまり関係ない。関係ないっていうのは、干渉するつもりがないから外に見えるものだけでその人を捉えても問題ないということ。昨日のわずらわしさに同情を求めたいなら、主語を大きくすると良い。非常識な人はとか学生はとか、一人暮らしの男はとか男はっていう風に語ると、自分の経験から乗っかってくれる人の賛同を得られるはず。

 

今日のご飯は、豚肉の切り落としに塩コショウ、酒、生姜で下味付けて片栗粉をまぶしてニラと人参と炒めて、醤油、砂糖、味噌で味付けしたものと、細切り大根を塩でもんでちぎったレタスとサラダにして、青じそドレッシングといりごま。ゴマとしんなりした大根の組み合わせって昔給食で嫌いだったなますっぽいけど、今や特に問題ない。でも確実にまずかった経験は残っている。

 

自我発達論の話で教育現場の話が出てきた。

「人は人を、育てられたようにしか育てられないし、教えられたようにしか教えられない」

 

とのこと。一般論的にはだいたいカバーされていると思う。自分の小中高の経験則でも分かる。観念を封殺することに重きが置かれていたような。そうやって画一化した枠の外に関しては全部禁忌とする。性教育に関してもきっとそう。婚前交渉を戒律として禁じていないんのだから、そういうことは確実にある。先に確実な避妊の知識を学校で教えてしまえば良いのに、それをやらないから、性に関する知識が歪になる。スローなんとかの方がよほど健全。そうして、そうやって禁忌にされた層が教えられたように教えるしかないからより変なことになる。色々思惑があるのだろうけど。抑圧された自我形成期が大人になって解放されたら変なことになるのはかなり真理に近そうなのに、抑圧を拡げるような風潮。

 

全然関係ないけど、夏目漱石さんって、嫂コンプレックスがあるのかもしれないとふと思った。嫂に恋をしていた言うことではなくて、何か救いがあったのかもなという程度。本当に居たのかどうかは全然関係なくて、そういう立ち位置の女性に羨望があったのかもと。自分を害さないし求めないけど、受け入れてくれる他人みたいな。知らないけども、こう解釈すると夏目さんはなかなかの現代人。

 

 

哲学の話。

 

僕が哲学書を全然読んでいなかった頃、自分の考えを語っていた日記をある人がかかっているカウンセラーだかに見せたら、この考え方は、ある時代の哲学の考え方だって評したらしい。それに対して、やっぱり同じように考えている人は居るのだとは感じたけど、だからといって別に救われたりはしなかった。

 

素朴に考えると、ある時代の思想家の考えって、その思想が出てくる背景があってそうなっている訳で、それに今を立脚させたところでズレるに違いない。なんとか主義とか、考え方に名前を付けるとか。だから、そういう思想を後ろ盾にしている人はなんだかうさんくさいと見てしまう。それを語っているその人個人を見るから。

 

 

次の哲学はなんだろうと考えると、言葉の意味の多層化かなって思う。

 

今までは、一応主流の価値観があって、それを正当として言葉の観念が規定されていた。だから広辞苑とかコトバンクとか国語辞典が言葉の意味を決めるのが普通だった。けども、これって、ある普遍の文化を前提とした決め方だったから共通項があったから、ここからはもっと同じ言葉でも違うように使われるってことが顕在化すると思う。例えば、男とか女とか結婚とか、文化圏が今までの層は、ぼんやり捉えるだろうし、マイノリティの層は体制に対する嫌悪を伴って使っているかもしれないし。

 

これって、多数派とか少数派とかの問題でもなくて、皆自分が発する言葉は完全に伝わるものだと発している。どう考えてもズレているのにその齟齬はないものにしてきたけど、そのないものにしてきたツケが、個人に出てくるのが次世代なはず。皆が個人になる。個人的には、可愛いっていう単語をいっぱい思い浮かべているのだけど、発するまでにはいかない。語用が変わればあるいは。

 

この辺りの意味が分かるかどうかはきっと、次世代脳か否か。優劣ではない、念のため。

可愛いっていう言葉は古文のあはれより細分化されているような。

 

 

おしまい。