硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

自己中

ぎりぎりまで引っ張るのはなかなか悪い癖だなぁ。応募の文章作って添削してもらって1晩寝かせたけど、今日締め切りだと思っていたら明日だったからそれで良いかと。もう1日寝かせてもこれ以上の文章はなさそう。日付が離れるほど自分の文章ではなくなる。そしてまだ自分の日記を発掘していないという。

 

 

晩御飯はやっとこさのピーマンの肉詰めと、広告の品だったパプリカと家にあったきゅうりの塩昆布浅漬け。ちょっぴり米酢入り。塩昆布は最後に残留した塩の部分ばかりだったのだけど、これが美味しい。昆布茶と近いのかな。肉詰めは、ピーマンがより新鮮で大きかったらもっと美味しいかったろうなと思う。たまたま玉ねぎがなくて長ねぎにしたけど、火の通りが悪いことから考えるとちょうど良かった。種には塩コショウに加えて山椒も追加、ソースはカットトマト缶とウスターケチャップでサイコロトマトのさわやか味。

 

 

さておき。                  

 

自我の話とかなんやらを書いていたから、寝る前に考えてはいけないようなことを考えたからなかなか眠れなかった。死ぬ前の痛さの話。死に極限に近いところでの痛みってあまりないのではないかっていう前提から、でも意識はあるとすればってことを想像して、勝手に恐ろしくなっていた。例えば、クライミングをして滑落してしまっている間とか、その後に

外傷がひどくて死ぬしかないのに意識があるとか。あと、クレバスの途中に引っかかって生きているとき、電波が通じるならきっと助けてくれじゃなくて感謝を伝えることに電波を使うと思うけど、それを伝えられた残された人がより罪悪感を感じるかもなっていうところもなくはないとか思想がスパイラル。もっと考えると、例えば洪水で暗渠に引き込まれるとか、ダムの排出口に落ちてしまったのに意識があったとしたら、どうだろうって。おそらくは、負荷が高すぎて意識がすぐ飛んでしまうって想像できるけどそうじゃないかもしれない。でも、よくよく考えると人は確実に死に向かっている訳で、あくまで距離の問題でしかないともいえる。大地震なのに体が動かないって夢は良く見る。で、起きてからも自分の血管の動きとか体の反射で、揺れているなぁって勘違いする。

 

 

そうして、そういう世界のことを考えていたからか、梅田の飛び降り自殺を見つけてしまった。動画もセットだったけど、さすがに見なかった。まず動画を撮って拡散する神経を疑うし、なんだか邪気がありそうだし。ただ、人の死の価値が違うっていのはいつでもあることだけど、なんでだろうと思ったら、自我との距離感によるということ。全然関係ない他人の飛び降りなんて動画で撮ろうが何をしようがなんとも思わない。自分は同情できないから。

 

たぶん、中世の魔女裁判で処刑されている人を眺めいているのと同じ感覚なのだろうな。いや、別にこの感性自体は脈々と続いているものだから否定すべきではない。撮った人とは絶対関わりたくないなというくらいで。人が他人の死について悼むかどうかっていうのは、その人の自我との距離によるのだろうなっていう仮説。家族の死とか友達だとかは、自我の一部が死ぬことに等しいから悲しい。関わっても自分の世界から離脱してもなんとも思わない人も居るだろし。亡くなったとしても、あーそうかで終わる。

 

ここに、人の命は等しいんだっていうなんだか正義漢の人が生まれているのが現代。たしかに理念的には等しくて、この等しさは国家が国民の命を等しく扱うことであって、個々人が個々人の命を等しくなんて、無理でしかない。

 

 

人が死んだら何が悲しいのだろう。

 

僕が命の価値観で気持ち悪いと思ったのが、保育園の散歩中に車が事故して突っ込んできて、保育園が会見を開いて園長が泣き崩れたという話で、Twitterにその泣き崩れている場面をキャプチャーして、さも自分は園長の気持ちわかりますみたいなところで、保育園は悪くないみたいなことを主張していた人。本当に慮るなら、感情を煽るように園長の画像を使うなよって。一回貼ったらずっと出回ることになって、園長がTwitterを使ってなかったとしても保護者界隈は分からないし、その画像を見る度に悲しみがフラッシュバックされる訳で。人権を守っている人と標榜している人の行動とは思われない。

 

もう1つ、気持ち悪いまではいかないけど、胡散臭いなって思うのが、飲み会に言ってたら、凄くセクハラされている男3人女1人の飲み会が隣にあって、トイレ行ったらその人がストレスで吐いていて、大丈夫ですかって聞いたら、けなげに大丈夫ですって答えたっていうエピソード。これ自体は本当にあるかもしれないし、そうだとしたら他人でも何かしらやろうとは思うけど、この聞き手はそれを放置して、後日Twitterにエピソードだけ載せている矛盾。これが本当だとしても当時者になったときに放置したのは女権を推奨する立場を表明しているのだったらおかしい。放っておかないはず。自我の距離感。

 

子供は嫌悪感を放っておいたら差別することになるという研究があるらしいけど、これって観測者がどういう思想であったかっていうのも影響しているように思う。客観的な観測なぞないっていうのが厳密な物理学界隈であったみたいだから、統計上のデータもどこを捉えるかで解釈はずいぶんと変わる気がする。

 

 

なんだっけ。

 

この流れで、シンクロニシティという名の共時性も、あらゆる外界の情報からたまたま自分の意識に登っていることが目に入ったところを世界としているっていうのはある。意識が変わると世界が変わるのはよほど頑張ってきた人だけで、そうじゃなかったら、自分が嫌だと思っていることばかりが目に付くようになる。

 

 

ということは、自我も他人がどう思うかみたいなことは考えなくていい、という境地までは至ってないけど。

 

 

最後。

 

こうやって気持ち悪さを表明しているけど、誰か、じゃなくて自分が持ってる気持ち悪さをあぶりだしているだけなような気がする。

 

 

おしまい。