硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

むきだし

はぁ~緊張した。公募用の自己紹介等と日記編集してPDF化して、人に見てもらって、送信するときが一番。分かりやすいタイトルにしていて良かった。投げてしまうと、投げる前より遥かに楽になる。試験の時も同じで、前には吐き気を催すけど、最中は楽しいし終わった後はもうしょうがないという精神になる。これくらいの精神でいつも居られると良いのだけど、極限は世界にあまりない。ある意味スリルみたいなもので、戦場カメラマンとか山登りとかもきっとここに近いところがある。山漫画がグロテスクなのに好かれるのは、きっと本当はそういうリスクを負いたかったという羨ましさがあるような。結果をありきとして考えるのは、結果が決まってそうな場合であって、結果がないところには適応できない。

 

 

死のイメージについての距離感。僕は結構近いところに居る。とさつがグロテスクだからという大雑把な感覚ではなくて、死が極限状態になったら、人間も動物も変わらない。死には言葉あまり関係ない。死のイメージでもう1つ思い出すのは実家で飼っていた白猫のチロ。かなり人懐っこくて、本能も放棄してしまったような子だった。双子のテンテンはもっとツンツンで、野生に近かった。野生に疎い白は、坂に停めてあったワゴン車のスライドドアの閉まる勢いに巻き込まれて死んでしまった。記憶を掘り返したらその瞬間にも立ち会ったから臓器がはみ出て命が終わるところに居たはずだけど、その映像記憶はない。父親が段ボールに入れてしろという名前の白犬のお墓と一緒に埋めたのは覚えている。そのあとテンテンは、野生をそこそこにして、魂が移ったように人懐っこくなった。

 

何日か前に猫は人の言葉が分かるっていうのを見たけど、そうじゃなくて、むしろ言葉で疎通することの方が劣っているのではっていう説。猫さんに通じたと思えたのは、尾道辺りの公園。厳密にはあの界隈の猫は人とあればくっついてくれるというかもだけど。

 

言語が通じるっていう観念は、言語が高度だっていうことを前提としている。同じ言語を使っていると思っていても言語では無理だなって思ったことがある人は居ないなんてこの日記を読んでいる人には言わせない。言語が分からなくては分かりにくいけど、例えば、相手が言いたい伝えたい表示していることを感じるのは素朴な感覚としてあるはず。ということは、動物の方が感覚的に鋭いから、何を見ているかっていうと、言葉じゃなくて、その人が醸し出す空気では。もっと言ったら、波なのだろうけど。野良猫氏が寄って来てくれないのは下心が垂れ流されているから。これって人間界にも適用できそう・

 

植物には痛覚がないかどうかも人には分からないし、肉は食べない、けど植物は良いみたいな思想は色んなものを馬鹿にしている。植物の世界を言語化したらどうなるのだろうね。痛そうって捉えるのは観測者の感覚であって、植物だってないがしろにされたら痛いと思う。反応として、より育たないとか吸収されないとかより苦みをとかになるのかも。我が家の豆苗は毎回すくすく育ってくれる。自分に分かる反応だけが生きている世界って考えるのは、省エネとしては良いけれど、それを他人の世界と一緒にしてはいけない。僕の世界は誰と

も一緒ではないけど、色んな世界は許容したい。許容ってまるごと受け入れるとはちょっと違う。その世界が正しいとは言わないけど、その世界を創ってきたあなたは正しいという感じ。

 

 

自分の日記を掘り下げて思ったのだけど、滅茶苦茶読みにくい。自分がぼやかす文脈を使うのは一応の意味はあるけれど、読み手として読んだらまどろっこしくてしょうがない。ほんとは無駄な接続詞とか「という」を多用するのもおかしいのも分かっている。自分の文章に思う、を使うのもおかしい。今日はそれをやってみた。随分読みやすくなっているはず。

 

Twitter世界をほじくって批判していたけど、そんなことより自分の表現を磨いた方が得策でしかない。色んな世界が見えるのは良いけれど、見えた世界に影響してもいけない。ちゃんと自我を確立している人は、新しいことに対しても自我が揺らがないのだろうけどいちいち揺らぐ。揺らぐのが通常形態だからもう一回返ってきてなんでもないのはある。

 

 

最後。

 

歴史で培っていた観念なのか、人は自分の仲間を求める習性があるらしい。でも、仲間っていう感覚自体が恣意的なものだから、世の中のすべからくの人が自由に発言できる関係の人と出会えたら良いなって願う。ちゃんと自分で或る人限定だけど。

 

自分であることを探るのはわりと禁忌だから、覚悟がない人はやめたほうが良いって助言する。