硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

ティラノサウルス(後)

 

 

 

さっきのでは自身の生の話。では他人の生とは。これを自分と同じだって言える人は、そうとうな省略がある。こうやって簡略していくと、今この瞬間に肉体的に滅んでいる誰かはどうするのだって。

 

っていうので思うのは、うちの祖母は認知症でもう僕のことは分からない。でも母のことは分かるみたい。これが悲しいと思うわけでもないけど、確かに生はある。これは過去からきた経験としての愛着もあるだろうけど、本当はそうじゃなくて、あのとき優しかったし守ってもらったっていう認識があるから。ただ長く接してたではない。

 

徒歩1分だったし階段もつながって居たから、良く避難しに言ってたのだけどいつも受け入れてくれたおばあちゃん。多分この愛着は、自我ができる前に大事にされたんだろうっていうところ。多分母親が仕事に行っていてる幼年期だっこしてくれてたんだなって。

 

 

でも、こう考えていくと、疎通できることとか肉体とか脳が命だっていう考え方はおかしいなって思う。集団は平気で個人の精神を殺すけど、精神を殺すことは犯罪にはならないのはなんでかっていうと、物証がないから。1番広くきついルールは現実しか規制しない。

 

 

そもそも生死っていう言葉の区分が厳密ではない。

死は誰にでもやってくる。ほんとか? 死って何も考えられなくなるとか肉体の崩壊とかって思うのだろうけど。じゃあちょっと翻して。

 

自分が今まで生きてきた所作を完全に覚えている人はいないけど、だったらその認識されなかった自分は死んでいるに等しくないかっていう問題提起。

 

死が肉体的な風化だけだったら、人間はもっと刹那的に生きているはず。

これだといつかはいつかやってくるし。

 

僕は心霊現象的な体験もウェルカムだけどなかんかやってこない。非言語ではある

のかもしれないけど。

 

 

まぁ霊的なものはきっと何処にでもあるし、日本人は神様が何処にでもあるっていう宗教観だし、繋がりを大事にする風土。

 

僕がいっつも思っているのは、じゃあ、扶養控除とか婚姻の意味が全くなくなった世界でもそのパートナーを選びますか、って疑問。結婚って他の人とまぐあわないように後付で創られた制度だし。

 

 

 

最後。

 

自分が固有であるっていう観念は誰しも自我を保つために在るだろうけど、その観念自体が、ストーリーの続きものでしかない。僕がこうやって考えているのも誰かがやっていることだろうし。で、ここまでくると、自分っていうことを保ってくれる拠り所が要るのだろうなって。

 

要は、現実とは仮想っていうこと。

 

おしまい。