硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

未到達

 

 

ぜんまいが全然減らない。ご飯はちゃんと食べているつもりだけど、胃腸があまり受け付けていない気がする。吐き気を催しても出てくるものは食道に流れている唾液だから、消化はしているのだろうけど。でも、無気力状態かというとそうでもない。体の機能を集中すべきところに集めているような感じ。眠いのは眠いし鈍い気もするけど、それもあんまり関係ない。頭痛も歯痛も肩こりも、すべては反動としておこう。

 

さておき、なのかどうなのか。

 

死について! を読み終わったから、何にしようかと思って本棚という名の本を平積みした塊を眺めていたら、積読というか読んでいる途中で目移りしてしまったうちの一冊が目に留まった。自我が揺らぐときっていう翻訳本。脳科学の臨床医が症例を挙げながら、自我とは何ぞやを探る本。今日出てきた人は、頭を打って前頭葉とどこか忘れたの一部の機能不全になってしまって、痛覚を感じない以外はほとんど変わらない人。掃除用の薬品で焼けただれた骨が見えている手で握手を求められたとか。痛覚が後天的になくなったことを想像すると足が痺れた時の延長で、痛かったこと自体は覚えているだろうから、痛々しさを感じさせるものを見せないようにするくらいのものさしは残っていても良い気もする、この人の場合は痛みにまつわる観念がごそっと抜けてしまったみたい。

 

自己観の捉え方で、かの有名な純粋理性批判のカントさんとカントさんに賛同しなかったジェームズさんの説が紹介されていた。カントさんは、「思考が生まれる前、世界や自分自身についてわたしたちが知ることができるより先に、経験の主体として「わたし」があるはずだ」、で、ジェームズさんは、「移り行く意識の状態があるだけ」で統一的な自我が確立されるのは、その意識の状態を自分が体験し続けているからということらしい。

 

これでいうと、昨日の人のものさしは環境要因であるっていうのはジェームズさんよりの考え方になる。これを突き詰めると運命論みたいなことになるのだろう。そして、自他の行動に動機があるっていう考え方は、どちらかとも言えないか。主体としての自分じゃなくて客体としての自分を問題としているから。動機は主体的な自分の捉え方ではない。他人に説明しやすくなるけど、他人は納得できればそれで良いし、納得できなくても特に問題はないくらいにしか聞いていない。

 

っていうところで、現象学は主体性の追求とのことだから面白いなと。流行らないのも同じ理由で分かる。相対的じゃないから。

 

 

自分は自己観についてどう思うかっていうと、自分自身については任意性をやっとこさむき出しにできてきたなという感じ。そして、自分にとって動機的な言霊がほとんど力を持たなくなっている。表層の意識で何かをしようとか何かをしたいとか何かをすべきだっていうのでは自分を制御できない。表層の意識が何をどうしようが、やることは決まっていると言わんばかりな感じ。「移り行く意識の状態があるだけ」論だと、こういう自分のオートパイロットの良いところだけ自分のものとして悪いものを自分じゃないとするみたいなことになるのだろうけど。操縦なんてしない方が僕の場合はうまくいく。

 

表層的自我は環境に依るっていうのはなんとなく分からんでもない。

 

 

今日のBGMは言葉がない方が良かったから、クロノトリガーメドレー。

言葉には観念が付きまとう。それが良い時もあるし、煩わしいとこもある。

 

で、他人の自己観に対しては、僕から見れば客体になる。で、客体的主観論だと、自分の主観がどれだけ環境要因に影響されているのかっていう意識無意識がある人はほとんど居ないように観測される。もちろん出していないだけっていうこともあるはず。ある環境にある世界では環境に合わせて生きた方が波風立たないから、擬態している人も少なからず居そう。

 

僕の主体もまだまだ解放されていない部分がある。

でも、まだバランサーとして必要なのだろう。上限突破みたいな意味ではなくて不自由かどうかの話。もうちょっとな気がする。

 

 

まぁ、自分がどこかに腹が立つとか暗い部分がある時に、その闇がなんであるんだろうって疑問に思うよりも矛先への力の方がずっと強いだろうから、いちいちそう思う自分を気にすることはないだろうな。という人はちゃんと自我が統一されているとも言える。

 

自我の闇は潜り過ぎるとなんだか恐ろしげ。胎内の環境とかDNAくらいに掘り下げないといけない。胎児に意識はあるかとか。植物が音波に反応して変化するんだから、意識はともかく自我の前に何かにが声掛けとか間接的な手触りの頻度で決定されてもおかしくない。

 

これもおかしくないというだけで、本当のことは分からない。

 

統一的自我の観念は、その都度の社会で不具合なく機能するかっていう程度のものだと思っているから、こんなもの突き詰めてもしょうがないのだけど。

 

 

んで、そろそろ最後だから、思考の言語化という可視化について。

 

思考は言語でするものだって言う考え方もあるけど、これって言語化できたものからの逆算じゃないのかって思わなくもない。見たものとか聞いたものをまるっきり再現できない以上、言語化することと頭の中にはいつでも齟齬がある。人は言語化するとき色々誇張しがちだし嘘もつくし。

 

 

それは嘘だって言ってた人がいて、曰く、イメージで思考するんだとのことで、これもなんとなく分かる。自分の全部が言葉で収納されている訳でもないし、言葉が当人を示してい訳でもないし。

 

 

 

よし、強制終了。

 

おやすみなさい。