硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

器の任意性

夕方5時過ぎに母親から連絡があって、何某かの用事があってまた後で電話するから取ってくれと言われた。ニュアンス的にすぐだろうなぁと思って、マーク試験の過去問解いたり、判例読んだりして待っていた。その電話が終わってから買い出しに行けばいいかと思いながら8時までは粘ったのだけど、しゃーないかと思って買い出しに出かけたらちょうどお会計をする前にかかってきた。そして佐田岬に行ってきたとかGW入ってどこかに行ったのか、いや言ってないとかの問答と雑談も含めて電話を終えた。なんだろう、あまり他人の時間の価値を想像できない人というのは少なからず居る。現状何にも拘束されていないのは確かだけど、だからこそ自律してスケジュール管理をしなきゃいけない訳で。厳密にやっているっていうより、気分の乗り具合にちゃんとついていくという意味。なんか自分と接していないときはすべての時間をかけて夢に時間を費やしていると思っているような。

 

ここまでで400文字ちょいか。

 

文字数を自覚的に把握することは色々有用だろうから、なんとなく感覚的に分かるくらいまでは行きたい。脳科学者の人の話で、脳波をモニタリングしながら訓練したらある程度コントロールできるようになるみたいだし、何事をするにも自覚的であることにデメリットはなさそう。スマホのアプリとかで出ないかな。睡眠の深さがモニタリングできるならなんとかなりそうな気はする。

 

そうして、他人の時間について想像力がないというか無頓着な人について、特になんとも思わない。そういう価値観なのかと思うだけ。これってお金を価値観の基礎に置くとそうなりがちな気がする。仕事じゃなければ融通利くだろうみたいな。もちろん可処分時間はそこに回せるけど、回せることと回さなきゃいけないことは全然違う。家族っていう枠がなければ全力で逃げるものさしではある。

 

時間への価値が薄いのは、無意識で過ぎていく時間の方が多いからだと思う。気を抜いたらどんどんと死へ垂れ流されていくもの。

 

ここで学習したのは、人間関係において相手の任意性に任せるということ。あと、時間をかけても良いと思う物事や人に対しては待つのも関係の一部。こっちは自分の任意性。刑罰とか契約とかの拘束がなくても空気感での強制というものはある。常識とか家族観とか、自分が造り上げた観念を他人にも強制したい人は多い。そりゃあ自分の観念でしか語れないのだろうけど。

 

僕は任意っていう言葉が結構好きかもしれない。意向に任せるというか、意思に任せるというか。自他が自由な気がする。自分が決めるという方向にはやや薄いけど、そっちも時間の問題だろうなと。期待っていう言葉はなんとなくよさそげなものとして使われているけど、上から目線で自分の観念に合ってくることにコントロールしようとするなら、ある意味強制に等しい。自分の予想とかものさしを越えてくるものとして使われているなら問題ないけど、自分を対等以下として相手を見るなら楽しみくらいが適切なのでは。

 

閑話休題

 

やっと乾燥ぜんまいを使い切った。どこにスイッチが入ったのか分からないけど、朝一でぜんまいとえのきとささみの炊き込みご飯と箸休めの大根のゆかり浅漬け、わかめとトマトの味噌汁を作った。2合炊いたから処理するのが大変で、昼は卵焼きをおかずにしようと思ったけど、ランチは楽するというものさしだから、生卵をかけて、卵かけご飯みたいに混ぜ切らずに、カレーに生卵みたいな感覚で食べた。そして残りのぜんまいはナムルに。ごま油で炒めて、酒、中華だし、しょうゆ、にんにくチューブ、白ごまだから、調べたレシピではナムルだったけど、個人的にはきんぴらな気がする。細かい定義は知らんけど。

 

ついでに、今までの日記とここ二日くらいの日記って何か文章が違う気がする。別に厳密に読み返している訳でないけど、空気というか非言語が変わっているような。非言語領域を気にして文章を読むというのは基本的に無作法な気がするけど。僕の文章って何かを語りたいわけでもないし、思考の整理とも違うし、位置付けが難しいところ。学問しているというのは結構な有力説。

 

どこかの誰かがこれを読んで何か思うところがあればというくらいか。

 

さておき。

 

夏目さんの行人読み終わってしまった。主人公の兄はかなりややこしい奴。死ぬか宗教に入るかみたいな有名なフレーズがあったけど、ややこしさ具合ではきっと負けていないくらいに観測されてそう。次の夏目さん枠は何にしようか。吾輩は猫であるもこの家のどこかにあるはずだけど、大掃除中には目に留まっていないから違うのかも。硝子戸の中だっけ? も読み切ってなかったような。

 

やはり今日も歌詞なしBGM

クロノクロスにした。

 

学問の有用性についてちょっと調べた。経営学は役に立ちすぎるから大学ではやらないっていうのを見たのだけど、なんとなく分かる。妹は経営学部だったはずで、拝借したゼミナール経営学入門も一読で有用性は感じたけど、それによって何かを考えることになる訳でもないなと。経営者が語るやるべき学問3選も見たけど、確か法学、会計学、英語で、これは学問じゃなくて実学だろうと。全部進行形だけど。

 

役に立たないけど教養になるっていうのが本当の学問らしい。

誰かに語れるっていうのも役に立つの1つで、そういう意味で言えば心理学も実学っぽい。研究者って新しいものを探求してそれが対価になるからまた別の話で、構築された学問を取集する意味は、自分のことを掘り下げる道具になる。というだけと評価するかは本人次第だろうけど。研究者はまた色合いが変わるのかな。

 

美学入門を読んでいたら、プラトンアリストテレスが出てきた。

プラトンは芸術家を排斥するっていう見解だったらしい。イデア論からすれば素直な帰結かもなと思う。演劇を見ることで感情的になって、感情に流れることは理性的な人物ではないっていうことも言っていたみたいだけど、何某かの劣等感の反動な気がしないでもない。アリストテレスは感情の発散になるから奨励すべきという考え方だったとか。現代で言う、表現物に規制をかけるか否か論争みたいなことを古代でもやっていたのだから、人間はループしている。

 

個人的には、どんな表現物もあっても良くて、そこで昇華されることで感情が現実に向かないっていうのはあると思う。演劇1回しか見てない僕が言うのもなんだけど、共感とか一体化することで感情がろ過されるっていう機能はきっとある。生きるか死ぬかそれが問題だ、の時代は表現物が演劇くらいしかなかったから規制にかかっていたのだろうけど、今や演劇はメディアにかからないから結構自由にやれそう。

 

公刊の表現物も今やウェブ漫画もあるから、規制しようとする勢力も手が回らないのだろうなという気もする。規制する勢力はもともと為政者に対する批判をやめさせようっていう国家だったのだろうけど、今や、女性団体とか嫌煙者団体とかPTAとかの中間勢力が主力っぽい。自分のものさしにとって存在してほしくない表現は抹殺しても問題ないっていう、なんとも不毛な闘争。表現の自由がある限り終わりはないし、表現の自由をなくすっていう歴史の後退を選ぶなら、自分の自由も縛ることになる。

 

でも、グロテスクな表現はなんだか増えたような。

少年少女にはゾーニングされているのかもしれないけど、熊だったら良いのかっていうのが有名どころと無名どころと。熊が人の味を学習してしまった事件は実際の歴史でそういう傾向にあったときに色々見たから、動物園で大型肉食獣見るのはおそろしいところがある。管理しているっていう人間のおごりみたいな部分とか。なんたらカムイよりマイナーな方がしんどかった。夫が熊に連れていかれて、何時間も食べられながらすすり泣きが聞こえてくるっていうPTSD案件。だったらそんなところに住むなよって思っても良いけど、環境がどうあれ、住む場所を決めるのは自由で。僕は絶対熊とかワニとか捕食者が居るところには住みたくない。愛媛の田舎には大型哺乳類(イノブタ)はいるけど、あえて人肉を食う動物はいなかったから良かった。グロテスクな漫画読むと唾液が分泌される気がするけど、これは食べたいじゃなくてアレルギー反射だと思っている。レモンとか梅干しとかと同じ。

 

登山家がはた迷惑だっていうものさしもなんだか似たようなところがある気がする。違いは登山家が遭難したら税金が消費されて救助に向かうことが気に食わないっていう、自分の財布理論。税金は労働みたいな対価の話じゃないと思うのだけど、なにかズレて考えている人が多そう。税金の使い道の何が良くて何が悪いのかも主観論だし。

 

 

そろそろ最後か。

 

なんだかんだ、人が向上することに手っ取り早い道筋はない。すぐ使えるものはすぐ使えなくなるって誰かが言ったらしいけど、そういうこと。ネットにはびこっていう情報って手っ取り早く有用だけど、有用に使ったあとに再現できるか、応用できるかの方が大事。

 

だからでもないけど、僕の文章は、僕に共感するより次に応用してくれた方が嬉しいです。

基本的に自分をまるまる表現できている訳でもないし。

 

さてさて、明日はどう変化しているか。

 

おしまい。