思想
今日は歯医者だった。仮詰めを取ってしまったのだけど何も言われず、歯茎が痛いって言ったら何らかの薬を塗ってくれた。歯茎は落ち着いたけど、胃には結構ダメージがあったような。しかし痛みは随分落ち着いた。ありがたや。そうして、診療費がやたらと安かったのだけど、消費者としてはありがたいし、良心的な歯科医院なのだと思う。けど、明らかに技術と投資に見合ってないような。でも、歯科医院ってコンビニより多いから、どこかしらに儲けどころがあるはず。保険外の領域が広いのはそういうことか。
歯の何を最低限にするのかっていうのも国家のコンセプトとしては難しいと思う。本当だったら人間ドックと同じように定期健診を強制的にするのが良さげ。歯が生きているかどうかって認知症にも関わるみたいだし。知覚の一部が鈍ると世界が鈍る。
この公衆衛生論みたいなものは歴史的に移り変わりがあって面白い。
これはきっと憲法やってなかったら分かってなかったと思うけど、例えば有名な裁判で、薬局の距離制限がある。距離を過密にしたら劣悪な薬が出回るかもしれないみたいな考え方は、歴史的にはあったかもしれないけど、今やそうでもないだろうっていうやつだったはず。
銭湯とか理容業界ももともとは公衆衛生から来ていると思う。公衆衛生から来ているものって、値段の設定が競争原理とは別のところにある。理容と美容の業界の微妙な隔たりももともとの存在理由の違いからでてきているような。今度理容院のお姉さんに聞いてみよう。
とはいえ、医師とそれ以外の医療分野って凄い格差があるような。医師会の力なのかなんなのか。何か統一的な政策が必要な気がしないでもない。これは士業も似たところありそうだけど。
さておき。
晩御飯は豚肉とキャベツの炒め物と、豆苗とミニトマトのサラダ、と、小松菜としめじと人参の白和え。豆苗はいつでも美味しい。メーカー1個しかない独占市場なのだろうか。他の豆苗見たことない。豆苗自体は独占としても野菜で言ったら競争だけど。
今日はコンセプトの話。
日本語訳だと概念とか根っこに視点とかみたいなことだけど、個人的には制度設計みたいな響きがあるからこっちにする。
法律にはコンセプトがある。別に誰か個人を害しようと思ってやっている訳ではない。けど、具体化されるのは個人だから、個人からみた法律が理不尽なのは分かる。
本筋はここではなくて。
死について!っていう本では、アメリカ人の死生観は宗教抜きにして語られていないけど、これをもとにした演劇であるパイプドリームだと、日本人は死生観を宗教と一緒には語らない。
死について! で今日読んだところがインディアンの世界観だったのだけど、喪に服し方が凄く好感が持てた。誰かが亡くなってから一年間は周りにお世話になる。この時故人の悪口は言ってはいけない。んで、一年後にお世話になった人を招いてパーティーして色々プレゼントを返すって。これが良いなぁって思ったのは、宗教とか葬儀業者みたいな媒介がないところ。日本にも49日みたいな慣習はあるけれど、これって仲介業者に対価を払った上でのもので。
んで、この話を読んで考えたこと。
思考は知覚と繋がっているようでそうでもないっていうのが現象学っぽい。
宗教とか国家にとって、信者とか構成員の死に対する観念ってとても重要。
何故かというと、どちらにせよ構成人数が権威に近いことになるから、なるべく死を見ないようにさせないといけない。
一番分かりやすいのが自殺とか堕胎は禁忌だとするっていうカトリック、で良いのかな、の思想。免罪符があれば来世で幸せになれるっていうプロテスタントのやり方もそう。原始キリスト教とはきっと違うところにあると思っている、念のため。キリスト今日の流派あんまり分かっていない。
では、天皇のために神風特攻隊になる思想はどうか。これも価値観の操作だと思う。
日本でも堕胎は禁忌とされている傾向にあるけどこれもきっと。
命の価値が等しいっていう考え方は抽象的には定着しているけど、本当はそんなの綺麗事だっていうこともきっと気付かれていて。だって国家制度がそういう風になっているし。
っていう、天皇が象徴的存在になったときに日本は宗教観を無くしてしまったのかもしれない。もともとの死生観がどこにあったかって言うと勉強してないから定かではないけど、結構直線的な考え方だったんだろうと思わなくもない。この天災はあの人の怨念だとか、八百万信仰の中には、死んだ人は死んだ人である意味思念としては生きているだろうけど、帰ってくるみたいな考え方はない。
僕の地元だからたまたま知っているのだけど、愛媛県のご当地アイドルが自殺したことに対して、ある意味自業自得だ、自殺は悪いことだって主張していきたいって言った芸人が居たらしい。
なんとも上から目線。
悪いって評価する視点ってどこから?
死生観に対する教育見たいな視点で言うと、日本は宗教もないし死に対する歯止めがない訳で、これって個人的問題じゃなくて社会的な問題だって捉えた方が良い。
僕は自殺も堕胎も肯定派。
関わっている人がそういう方向であるならば抑止できると思うけど、関わっていないところで無責任にやめろとは言えない。ばいじめが苛烈だとか、親から虐待を受けて逃げ道がないときに、逃げ道を作れる人なら言えるけど、そんな人に死んだら負けって言ったとして、言われた側はどうしたら良いのか。世界に拒絶されているとしか思わないはず。
何故抑止できるかって言うと、僕が一番死にそうだからっていうのはきっとある。僕に接した人が安心できるっていうのは下を見ているのかもしれないし、相手を否定しないところにあるのかもしれないし。
自殺も堕胎も殺人だっていうけれど、これって社会的目線でしかない。
堕胎だと、一人っ子政策時代の中国に生きていたらそんなこときっと思ってない。
時代的にどんどん幸せになっているっていうのが普通の観念だけど、本当にそうなのかって思う。もしかしたら江戸時代の方が豊かだったかもしれないし、もっと遡ったら、ギリシャ時代の方が楽しいかもしれない。
なんの話だっけ。
要は、命に対する考え方みたいな根源的なものっぽいものでさえ国家のコンセプトに操作されているってことかね。
ペット観もきっとそう。
最後。
だからと言って、全てが時代のコンセプトなのかっていうときっとそうでもない。
装飾を取っ払ってみたらおそらく本質に。人と接すということは、お互い何かを犠牲にしているとか。
そうして僕はどんどん自由になっていく。
おしまい。