硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

証拠

鯖水煮缶の汁を捨てて、レモン汁、醤油、マヨネーズ、七味を少々かけて、トースターでマヨネーズに焦げ目がつくまで焼く。とても美味しい。水煮缶は原料が鯖と食塩しかないものが多いからお気に入り。密封するって腐敗を防ぐためにはかなり有効なのだろう。厳密に味わえば、缶の味も含まれているのだろうけど。パックご飯にプラスチック臭があるのと同じように。あまり意識はしていない。

 

 

さておき。

 

今日はよく寝た。のだけど、やっぱり僕の世界は想像の外からやってくる。良い子の日にケーキがやってきた。4月生まれであることは個人的にしっくりくるのだけど、基本的に不遇だと思う。特に義務教育時代。クラス替えして馴染む前に誕生日がやってくるし、次の年でも新学年で皆バタバタしているし。そんなことを言ったら元旦生まれとかクリスマス生まれとかの方が大変だろうけど。個人的な事情で、毎年五月に試験があるからそれでところではないから良く忘れる。誕生日も予定みたいなものだし、予定は基本的に少ない方が良い。毎年家族は律儀に祝ってくれる。

 

母親が今年は祝ってくれる人が多いと良いですねっていう新たなフレーズを出してきたけど、個人的には多くに祝われたからなのだという気もする。少数精鋭で良いような。ただ、母親はきっと教育心理学とか発達心理学とかかじっているだろうから、僕の闇深さを把握されているような気がする。

 

ともあれ。

 

ホリックというアニメで、人は鎖で縛られているという話を見ている。

人が使える唯一の鎖は言葉だとのこと。自己評価とか他人への言葉とか、一回出したものは自分を縛るという下り。確かに、言葉の機能としてはこういうものもきっとある。自分を縛るし他人も縛るし。縛り縛られ。言霊の波。

 

規範っていう言葉がある。

あまり一般的ではないだろうけど、ルールで言い換えても良い。決めつけられていることと、決めつけていることと。道徳規範とか宗教規範とかは外から来ているものだし、法規範だってそう。決めつけていることっていうのは自分はここまでだっていう観念か。

 

 

ルール付けっていうのは関係がないところでこそ大事なのでは。親しき中にもなんとやらっていうけど、本当に親しかったらなんとやらはなくても良いような。完全にないかと言ったらそうでもないだろうけど、少なくとも礼儀っていう一般評価みたいなものではないはず。

 

 

 

で、なんだっけ。

 

 

そういえば、日本人のIQって世界でトップだという記事を見た。こういうデータを見た時に気にしないといけないのは、母数とか対象とされた層のこと。恣意的に動かすみたいな意図はなくても、どこを選んで試験したのかでがらっと変わる。

まぁ匿名的掲示板とか、動画のコメントを見ていると確かに賢そうな気はするのだけど、全然優しくはない。っていうのが国民性なのだろうか。おもてなしとか礼儀とかって、相手の為ではなかろうっていうひねくれた捉え方だからだろうけど。

 

 

でも、何か救われたなって思ったのが、現象学をテーマにした「ことばと意味」っていう本の中に、自分を探る手段も言葉しかないみたいなフレーズがあったこと。やっぱそうだよなって。言葉の機能は縛りだけじゃなくて、掘削の機能もあるという。

 

主観と客観の齟齬は当たり前で、自身っていうのは世界との関係にしかないという捉え方。

 

 

この関係っていうのがまさに世界が主観的なものでしかないっていうこと。

人が大事だっていうのも関係によって自分が見出されたってことだろうし、関係がない掘削できないっていう意味もある。

 

ただ、この関係って必ずしも生身の人間でないといけないのかっていう疑問はある。

本は人を傷つけないかって、そんなことは全くない。痛いものは痛いし双方通行だし。

 

人が人を傷つける部分って、何か糧になるっていう部分がかなり少ないように思う。僕は少なからずの人を傷つけてきたけど、相手は糧にするより、その傷を忘れることを選択しているだろうなって。

 

個人的に忘れられることってすごくありがたい。この心理がどこからきているかって分析すると難しいのだけど、今は今だからで良いのかな。

 

忘れられることが悲しいっていう物語は古今東西あるし、認知症もそうだけど、これって主観的なエゴっぽい。私は忘れられていません、他の人は忘れられていますっていう比較の何処に意味があるのか。

 

ゲームの話を持ってくるけど、ファイナルファンタジー8って、記憶障害みたいなことがテーマに入ってくる。覚えているって、記憶を言語化できることだと思うけど、この意味で覚えられるくらいなら忘れられている方がマシかなって思う。

 

これって突き詰めていくと、自分が死んだ後にどう扱って欲しいかっていうこと。

人生上で縁が切れた人は当人の世界ではほぼ死んでいるし。

 

ほぼ死んでいることと確定的な死の違いがどこにあるのか。

 

 

っていう文脈だと、いっぱい時系列上の人が出てくる訳で、中にはきっと亡くなっている人も居るはず。大学時代に通っていたダーツバーのマスターはきっと怪しい。でも、怪しかろうがなんだろうが、何もできない訳で。人は基本的に薄情というか、道徳観が過大なものを求めているか。遠いからとかお金が足りないからじゃなくて、結局人は自分の範疇でしか人と接することはできない。

 

 

おしまい。