硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

神様

今日は特に話題がない。定期的にやってくる無気力期間、なのかなんなのか。特に動いていないのにやたらと体と頭が重い。動いていないからだろうけど、要はまともに生きていない観念が自分を縛っているような。という感覚は気を抜くとすぐにまとわりつく。まともの意味も分からないけど。

 

 

さておき。

 

こういうときは、言葉が浮かばないというより思考が断片的でうまくスケッチできない。何についても書けそうだけど、視座が固定されないからなかなか大変。拡散的思考は悪いことではないけれど、言葉ってこれで良いかっていう自分の固定みたいなものだから、日記とはそぐわない。書きながら推敲してしまうのはかなり効率が悪い。そういう傾向はもともとあるけれど。

 

寒い寒い。

 

 

ともあれ。

 

人間が経験の前にもともと何かを持っているっていうっていうのは、心理学者や哲学者が追求してきたことだけど、なんとなく芸術分野もそんな気がする。これを突き詰めると、魂みたいな話になるだろうな。人造的な神様がおかしいっていうところから始まっているはずなのに、結局そういうところに収束する。

 

信仰と精神疾患の繋がりとかも気になるところ。

日本人はなんとなく他人に寛容だっていう精神があるとされているけど、個人的には日本人の根っこって排他性にあると思う。

 

排他性があるから、他人を外の人としてもてなすことができるっていう意味では外面は凄く良かろう。でも、手塚治さんとかドクラ・マグラとか夏目漱石さんとか読んでみると、よくわかる。女性とか精神疾患の人は排斥されていたのだろうなって。女性の場合は、女性社

会の中では男性を排斥することで均衡を保っていたという部分もきっとある。

 

精神疾患ドグラ・マグラなのだけど。まだ読み切ってはいないけど、チャカポコリズムが忘れられない。んで、西洋の魔女制度じゃないけど、日本にもそういう制度がある。法律やっていないと知らないだろうけど、被後見人とか被保佐人とか被補助人の制度。もともと禁治産者って呼ばれていた語感でなんとなく分かる。現代の制度では一応事理を弁識することができない人のを保護しつつ意思を尊重するっていうことになっているけど、なんとなく腑に落ちない。保護という名の排斥っぽい。従妹がそういう人だったから確かに怖かった。力も強そうだったし。でもこれって知識として教えて貰っていなかったからという気がする。日本の義務教育で発達障害とかダウン症の話ってあったっけ。タブーにした方が変な観念が芽生えるのは人間の本質、か?

 

外国の精神疾患に対する扱いの文化も定かではない。

死について! でもそういう話は出てこなかった。LGBTの話か宗教か。よくわからないまま書くと、これってどういう対象に性的欲求を感じるかっていう区分だと思うのだけど、別に性的欲求をパートナーで解消する必要もないような。もっというと、この欲求を前提とした考え方はなんとも動物的。

 

 

って日本を考えていくと、もともと差別と言われる傾向があったにしろ、それは役割分担でうまくやっていたのかなっていう気がする。えたひにんとか部落差別は、どこかに下がないと精神衛生保ってられないっていうのが本質っぽいし。ちょっと前は反中反韓みたいな精神性で保ってみたいだけど、今はどうなっているのか。

 

そうして、ポツダム宣言くらいに男女平等とかっていう観念が輸入されててんやわんやになった。平等っていう考え方も難しいところで、何と何を天秤に載せるかによって全然違う。一番分かりやすいのは、能力とか労力とか金銭とかか。

 

でも、本当の平等はきっとこの言葉に還元されないところにある。現実的に比べられるもので釣り合いを取るのが平等の関係だけど。

 

資本主義が良くできているなぁって思うのは、比較で他人を測りがちな人間性と、平等っぽいものが適応されているっぽいところにあって、人間の動物的なところをよくついているところ。競争がない方が人は人になる。

 

陰謀論みたいな話もあるけど、おそらくそういう向きもきっとある。

マルクスさんの資本論読んでいる限りもっと俯瞰的に経済を捉えているのだけど、何か捻じ曲げた意思があるような。

 

例えば、今仕事しなくてもいい人はしなくても良いってなっても、もともと仕事とされていた活動はきっと収まらない、と思う。コンビニとかスーパーとか外食チェーンはなくなるだろうけど、突き詰めたいとかもてなしたいっていう欲求を持っているのも人間で。

 

こういう突拍子もないことばっかり書いていて、反論も想定しているのだけど、全然そんなことがないのは見ている人が生暖かい目で見ているからだろうか。

 

 

最後。

 

僕は個人と接するのが好き。個人の定義は、時代の主流から外れたところを本当にどうかって迷っている人。時代の主流が基盤になっていたらそれは個人じゃなくて社会人。

 

女性の比率が圧倒的に多いのは、男性は時代の主流を軸にしていることが多いからだと思っている。社会的に競争しなきゃいけないし、弱みを見せたら食われるしって。だから、あまり勝ってはいけない。

 

 

なんの話か定かじゃないけどいつものことなので、ここでおしまい。