硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

毎日がセーブポイント

こんばんは。

 

毎日毎日書いていることがぶつ切りになるのだけど、昨日の世にある世界観を自分用に加工しないと自分には通用しないっていうニュアンスのことを書いたけれど、日本の世界観自体がそういうものではなかろうか。世界的に見れば東洋思想ってきっと中国を中心とした世界観だろうし、今読んでいる東洋医学の本も、もともとは中国から来ているけど、日本で独自に発展したものだっていう話だし、もとから日本にある思想ってそんなにないはず。八百万信仰は独自だろうなという気はするけど、集合的無意識的な思想って考えると、それほどでもない。

 

現在はなんとなくだけけど、自分の価値観と評してどこからかパッケージごとコピペした世界観を時々に合わせて選択するのが主流な気がする。別に悪いことではないけど、こういうことをしている根っこの自分は何処に在るのだろうか。

 

今日は前置きなしでこのままだらだら書こう。

 

日本とはなんぞやの話。

憲法の専門書から。憲法とは何かっていうと、国における統治組織と統治の在り方に関する基本的な法規範とのこと。法規範は専門用語だけど、要は物理的な強制力のあるルールで良いのかな。ともあれ、ということは統治できる範囲である国家というのがなんぞやっていうことになる。普通の人は意識しないだろうけど。

 

んで、国家とは何かっていう定義は色んな学問からの視点があるし学問の中でも一致していないから、なんとなく社会学的国家観と法学的国家観を把握して置けばいい、と専門の学者が言う。のは良いとして、社会学的国家観は、物理的な領域と、構成員である人間と、権力が不可欠だという風に紹介されていた。ただ、社会学の本からすると、この考え方は古典的な社会学の国家観だと思った。法学は基本的に腰が重いって考えると分からなくもない。

とかいう今の日本の法律も基本的には何処かからのコピペからの加工が多いという。

 

なんだっけ、思考が分散している。

あぁそうだ、じゃあ素朴な国民の視点から見た日本とはなんぞやという話。

ごくごく単純に法律的に考えると、国籍離脱の自由があるから、現在では自分が生活する一つのパッケージにしか過ぎない。別に日本に住むことを強制されている訳でもないし。ということまで視点がある人はそうそう居ないと思う。外国のことなんて世界の外だろうし、一番は人間関係が日本にあるから選択肢として出てこないってことなのかな。

 

個人的な視界で言うと、日本自体は好きでも嫌いでもないなと思った。安全だっていう面でも、この安全さだからそう動いているだけで、安全レベルが下がれば備えれば良いだけの話。清潔さも、もっと清潔な国はあるかもしれない。でも日本語は好きだと感じる。

 

僕がここで言っている日本語は、誰かと疎通するっていう意味ではない。疎通する言語形態はどの国だって持っているし、日本語でも敬語とかのよそよそしく人と繋がるのは含まれない。

 

非言語的な言語。

 

 

だいぶ潜っているなぁ。

 

ちょっと浮上しておこう。

 

直感なのだけど、仕事場での邪気というのがなんとなく把握できた。

自分が居なかった時の方が不協和音になりつつあったのではなかろうかと。仕事上では恙無いのだろうけど、観察していると皆が皆相手に対してよそよそしい。それが仕事上での距離感だって評する考え方もあるけれど、何年も一緒に仕事していてこの距離感はなんなのだろうって。プライベートで何か交流がある気配もないし、ということは、それぞれが別にそれぞれの人に対して興味がないっていう歪さ。

 

こういう不調和でそれぞれが誰かに言えなかった檻みたいなものが流れてきている気がする。別に良いのだけど。

 

 

やっぱりこの話書いているとなんだか閉塞感。

 

 

さておき。

 

料理は化学であり愛であるって話のパッケージもストックされているし、他にもいっぱいストックがある。数学と法学の類似性みたいなものもぐつぐつしている。今の僕の頭の中って、色んな概念をいくつもの鍋で煮詰めているというイメージ。

 

分かりやすく直感の話を選択。

 

直感って霊的というか超能力みたいな節があるけど、割と経験則みたいなところが強い。

例えば、美味しい店みたいな現実的なものでも、僕が見ているのは外観の何処に気を使っているかみたいなところ。別に意識的に見ている訳ではない。意識的に見ようとすれば情報量が多すぎて処理しきれない。

 

要は、直感というのは、自分が何を意識してきたかっていうののショートカット。

 

対人で考えると、色々学問が確立されている。

人相学の範疇なのだろうけど、その人がどう生きてきたかっていうのは顔に出てくる訳で。

なんだか占いみたいな話だけど、占いこそこの領域の蓄積率が高い。顔っていうのは別に造形的に美的だとかそういう話ではない。

 

そろそろ時間切れか。

 

顔にケアがいっぱい必要なのは、外的内的負荷が一番かかるのがここだからかなっていう発想。顔こそが自他の自己像の象徴というか広告塔というか。

 

ってなった時に、言葉しか存在しないこの場の顔とは何だろう。

 

ちなみに、どうでも良いことだけど、僕の存在意義は時系列で変化し続けること。

 

 

おしまい。