循環の効用
次の面接の履歴書を書き終えた。職務経歴書はあとコンビニでプリントアウトするだけ。次の所は、志望動機も自己PRも要らないらしいから、僕のややこしさがきっと剥き出しになる。趣味は読書と寺社仏閣巡りと演劇鑑賞と考え事とブログ。特技は料理。
この自己認識と他己認識の齟齬って何処からやってきているのだろうって考えている。
自分と他人を分断してしまっているからこうなっていると思っているけど、、
さておき。
水滸伝の3巻読み終わって探したのだけど、新品古書含めて見当たらない。なかなか面白い現実。僕は本とも縁があるっていう信仰を持っているから、こういう出来事に意味を見出す。
解釈としては、現実に寄ってしまっているところで離れてしまっているか、今はこういうものを読んでいる場合じゃないとしているのか。
欲求が薄いっていうのも齟齬の1つなのかも。
欲しいものはなんですか、って聞かれても困る。例えば、自分が焦がれている人との接点とか、自分の財政難とかで考えてみると。接点を他律的に設定されても面白くないし、財政難だって、僥倖的に救われたところで意味はない。
今日も死について! を読んだのだけど、信仰と美意識もちょっと近いかなって思った。
これを言い出したら法律か道徳とか価値観も出てくるけど、最低限の共通項は行動規範ってこと。砕いて言うと、思考じゃなくて現実で行動するときの自他ルール。
信仰と美意識が今挙げたものと違うのは、外から決められているところから離れていって、個別的になること。行動規範としてはどうでも良い領域の中でこだわりを自分が決める。
マジックワードにはならない。
僕の美意識はなんだろう。
この辺りの統一感がないのはなんでだろうって今日考えていた。
他の人になったことはないし、他の人も分断傾向なのかなって想像しなくはないけど、それほどには見えない。
1つ思ったのが、感謝っていう観念を循環させていないなっていうところ。
感謝の本質って一方通行で、感謝することも感謝されることも勝手だけど、そこには縁っていう繋がりある。
で、時系列を遡ると、感謝されることが苦手だったっていう歴史がある。もっと言うと、感謝の中身に対価が含まれているのが嫌だった。好意とか自己評価を高めるためとか感謝される事自体が自己評価を高めることになるとか。自分が感謝を発現するときの副次効果のためになんだか嫌だなって思ったところもある。
でも、本当の感謝って、循環しないところにあるような。
例えばご飯を食べるときにいただきますするのは、儀礼じゃない命への感謝であって、その食材達は感謝されたところで死んでいるし。
これにもかかわらず、僕に足りないのは感謝の循環かなって思う。
儀礼的なありがとうの交換ではなくて、本当のありがとうの交換。時々しかないけど。
まとめ。
要は、こうやって煩わしいことを考えているから社会的な意味であまり人と関係できていないところに齟齬がある。一般的に使われているありがとうと自分が使うありがとうは意味が違うなんて思っているからおかしいことになる。
人間関係の循環を閉じたところには色々歴史がありそうだけど、今日はここまで。
おしまい。