どこと決めるか
お久しぶり。といっても3日だっけ。個人的には濃密な時間だったから、だいぶ離れていた気がする。そして、若干汚い話も出てくる予定だから読む方は気を付けましょう。
さておき。
さくっと書けば、掃除と花見したで済むのだけど、大掃除の方がなかなか。今流行りの断捨離みたいなことになった。45ℓごみ袋で30袋以上。紙類が多かったから、パンパンには詰めていないけど。リットルっていうのは重量じゃなくて質量。厳密な違いは分かっていないけど。まぁ一人ではやらなかっただろうなぁ。
ともあれ。
大掃除した後、もの凄く体調不良になった。自分の肉体が自分のものではないような倦怠感と寒気。インフルエンザの前兆と近いのだけど、微妙に違う。食中毒経験もないのだけど、それとも近そうな感じ。加えて消化不良。
断捨離と体調不良について調べていたら、好転反応というやつがあった。一気に捨てると気の流れとか云々が乱れて、一時的に不調と不運が舞い込むみたいな解釈。
でも、もう一つの解釈もあった。科学的な見解。捨てるのも掃除にも普段使わないエネルギー使うし、蓄積された埃が舞うことになるからそれを吸い込んで体調不良になるという説。
これって、結局は現象に対する解釈でしかない。
解釈でしかないっていうのは、結果に対する原因を解明するときのつじつま合わせ。
解釈の機能は、大まかに言うと、過去を納得することと過去から次に生かすというものがあると思うのだけど、人生上どちらが有用かって言ったら、明らかに後者なはず。
断捨離を原因とした不運とか体調不良とか不運とかの結果の解釈は、どちかというと好転反応の方が良いと思う。要は、捨てた分、反動があって、さらに対価があるからという、原因に対する人参。蓄積した埃が原因だって言われたら、もうやらなくても良いってなるだろうし。
僕はあまり人生上どうかっていうっていうものさしがないのだろうな。
しかし、きっとこれを突き詰めた方が良い。
ところで。
たまたま漫画アプリで24時間タッチが無料だったから、一気読みしてきた。実際中学校野球部で、野球の才能がある人の傲慢さってどうしようもなく好きじゃないのだけど、あだちさんが描く野球人は大丈夫。まぁデフォルメだろうけど。
でも、中学時代、たまたま才能が集まっていて四国大会まで行った時のエースが、何故か僕に一目置いてくれていたような気がしないでもない。中学の部活だから、他にもいろいろ判断要素があったのだろう。
知らぬは自分ばかりなり。
思えば、このあたりから自分を抑圧してきたのだろうなぁ。
戻ってきて。
消化不良の話。
吐きながら酒を飲んできたから、吐くこと自体には特に違和感がない。遡っていくと車酔いで良く吐いていたし、嘔吐下痢症にもよくかかっていた。
でも、今回不思議だなと思ったのが、大掃除をした後にピザを食べて、そこから体調不良になって、次の日花見に行って、ソフトクリーム、たこ焼き、いかの燻製、ゆかりおにぎりを食べたはずなのに、帰ってから戻したのはピザの具材だったという。消化を任意に選択できるのかって。消化できにくいものが戻ってきたって行っても、12時間以上、コーンとかベーコンとかが丸々の形で胃に残留しているのかと。
そうして、おかゆも食べてみたけど、全然吸収されている気がしないという。
おかゆも戻すってそうそうない胃腸の不具合だけど、これでなんとなく分かった。
胃腸に関しては、精神的ななにがしかで、一時的な摂食障害みたいなことになっていたんだろうって。これは断捨離とも結構繋がっている。
今回捨てた物って、院のときに時間をかけた資料が一番多かった。努力をした栄光みたいなものはどうでも良いけど、捨てていいものかって見るときに当時の時間が顕在化する。苦しいとかじゃなくて、時間に当てられるという感覚。自分が書いた言葉とかもいちいち察することができるし。
元恋人さんの諸々もすっきりしたけど、これに対しても、拒否反応がきっとあった。僕はもともと対人関係で自分のものさしをもっていない質だから、自分で初めて決めたことっていう感覚があったのだろう。今思うと、負担のバランスが取れてなかった。
結局のところ、原因の結果と解釈の話かな。
死について! はエイズの話から癌の話に移った。レズビアンのコミュニティ。
人がガンになったとき、何かその人に原因があるっていう解釈はおかしくて、環境要因とか汚染とかもっといろいろ原因があるだろうっていうこと。
乳がんになった人は何か不摂生があったのか?
そんなこともなかろう。生きてれば最終的には皆がんになる。
やれやれ。
もともとの自分の話。
(そもそも自分はどういう人物であるかっておおっぴらに言える人は全く信用できないけど)
僕がちゃんと自分になったのは、地元から大阪に出てきて、一人暮らししたとき。実家では全く掃除とかしなかったのに、なかなかきれいに保っていたと思う。人が来るから体面を保つという面もあったのだろうけど、もともと綺麗好きなのかって言われると微妙なところだけど、そういう振れ幅もあるというくらい。
綺麗にする意味って、基本的には他者のためだと思っている。潜在的も含み。
汚いことを許容されたらそれで良いっていうのも微妙なところだけど。そういう意味で言ったら、自分の為の方がきれいにできるかもしれない。
内外のバランスがズレている。
もともとの自分って、おそらくずっと遡ったところに根があるのだろうけど、それ自体も解釈でしかない訳で。幼少期の自分の言動を外から解釈して自分はこうだって捉える思考。
そういうのをとっぱらった自分を捉えると、本当はめちゃくちゃ完璧主義なんじゃないかって思うところがある。そんなものは物理的にありえないのだけど、それを求めるっていう意味で。
置き去りにした時間を取り戻すというか、捨て去るというか同義。
結論。
僕は自分の人格を固有のものだと捉えていない。
音楽。もともと好きな波長っていうのも分からないけど、親密になった人から諸々影響されている。学問だってそう。
ここの人格って、自分を知ってもらいたいじゃなくて、他人を知りたいところ。こうなってくると、意志とはなんぞやってなってくるけど、根っこにあるのは志向なのだろうなって思っている。
どんどん面白くなってくるなぁ。
おしまい。