硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

死角

 

 

サバ缶と豆苗と玉葱の蒸し野菜味噌風味。あえて水煮缶にして味噌を加えるという。自分に見えない調味料はなるべく減らす方針。キャベツしめじえのきの酸っぱ煮。ごまとか鶏ガラだしとかてきとーに入れた。そして卵焼き。

 

御飯作っている最中にちょうど母親から電話がかかってきてご飯の話をした。やはりキャリアが違う分知識が凄い。というか、天然の切り干し大根とかゼンマイとかわらびが貰えるらしくうきうきしている。山菜大好き。本筋の要件は年末年始のどのタイミングで規制するのかとのことで、帰ってきたら山菜を分けてくれるということだった。

 

個人的にそろそろ人の手が全く入っていない自然に触れたい欲求があったからちょうど良い。実家の周りは自然の生態系がほとんど崩れていない。四国だからそれほど危険な動物もいないし(いや、毒蛇は居るか)、同級生の中でも辺境みたいな所だし。ここで散歩する空気の濃さは、大阪の自然公園の比ではない。年末年始だともしかしたら雪が積もっている可能性もある。

 

さておき。

 

なんというか、ずいぶんと生きるのが楽になってはきている。

これは生活が落ち着いてきたことが原因なようで、全く別の解釈をしているのだけど。でも、現象としては同じものだから別に誤解とまではいかなかろう。

 

まずは、他人の粗より凄さが視界に入るようになると良好の向き。凄さっていうのは自分がたどり着けない圧倒的なものっていう意味での感動がまず1つ。これは良好っていうよりフラットな状態。受信する器官がまともになったという意味。もう1つは身近に関係している人に対して。これは自分が身につけるための学習器官が可動している。

 

受信期間の感度が高まると、不思議なことが起こる。

例えば、今日読み返していた本で、人は情報ではないっていうフレーズが出てきたり、読んでいるブログで断捨離するなら人間関係っていう趣旨のフレーズが出てきたり。こういうのをシンクロニシティって呼ぶ。いまどき非科学的なものを信じるなんてナンセンスみたいな向きもきっとあるだろうけど、それに対する反論としてはこの現象は信じる対象ではないって返す。自分の中の感度がフラットになったときに結果的に起こるだけだから、そのために何かをするっていうものではない。本当はもっといっぱいあるのだろうけど、自分の外界に対する感度ってコントロールできるものではないから、たまたまでしかない。

 

自分が思った通りの世界でしかないって捉え方も一理だけど、それはある意味では自分の一部をこの世界から退場させていることに等しい。

 

もちろん前向きに生きれば良いんだみたいな体育会系の話ではない。

 

読んでいる本の中に社会学があって、家族社会学の所まで来た。

日本でだけ生きていると日本の家族論というか道徳がベースになるけど、従兄弟と結婚できることに対して眉をひそめる社会も別のところには在る訳で。婚姻関係は一対一であるべきとか卑属は尊属を敬わなきゃいけないっていうものさしも外付けのものでしかない。卑属尊属っていうのは、もう名称からアレだけど、親族の中での年長者が尊属でその子供とか孫とかが卑属。

 

つまり、社会っていうのは構成員の中でしか通じない不文律だということ。

学者はもっと分析して細かく分類しているのだろうけど。外から見たら犬畜生っていうフレーズはなかなか良いなと思った。

 

 

そうして、社会は別に集団の中だけにあるものではない。

自分の中にも時系列毎に構成員が居るわけで、自分っていうのは1つの社会と捉えてもきっと間違っていない。っていう意味で考えていくと生活習慣を統一する意味っていうのは、社会を規律するっていうより、やたらと長い人生に立ち向かうためにはトータルで束ねて対抗しなきゃ太刀打ちできないからっていう意味合いくらいしかないような気がする。

 

ここには将来のために何かを残すとか過去から蓄積したものを果実にするっていう観念はない。間延びした自己把握とも違う。欲求を満たすためには1歩ずつでしか方法論がないっていうだけ。

 

最後。

 

っていう意味で考えると刹那的な欲求というのはどういう位置づけになるのだろう。それが満たされたところで、特にトータルには影響しないし。

ただ、これにはバタフライ・エフェクトっていうものもあって、初期条件では微差でも結果的には全く結果が変わる。これは科学的に証明されている現象。

 

つまるところ、一番大事なのは好きなように生きるだけっていうことなのでは。

 

 

おしまい。