比率
諸々やっていたらこんな時間。お風呂に入ろうとお湯を溜めたのに無駄になってしまった。でも、目的はなんだかんだ全部達成できたから良かった。
さておき。
胃腸はなんとなく通常営業。歯の神経を抜いたところだから固いもの食べられないし、ちょうどいいと言えばちょうどいい。納豆買うの忘れた。吐き気はやっぱり一種の拒食症みたいなものだったのだろうと思っている。まぁこれはこれで良い。歯の痛さも、神経は抜いていているわけで、周りが反応しているのだろうけど、これも他に気が行けばなくなる程度でしかない。
痛みは個別的なものだから、相対的に把握するのは無理。だけど、歯医者で痛かったら手を挙げてくださいっていうのも、この痛さは手を挙げるくらいの痛さなのかって思って挙げなかった。歯科医の上手さなのか、もう少し痛かったら挙げようかなってくらいのところで留まっていた。
いやはや、なんの話だっけ。
紙媒体のものは残っていたけど、PCのデータの中には残っていないから、職務経歴書を再再現した。意外とできないし、時系列の細かな年号は全然覚えていないから、都合の良いように編集するのはいくらでもできるよなぁって。完全な嘘は破綻するだろうけど、ちゃんと説明できればなんとでもなるような。細かな経歴が分からないことは経歴詐称になるのかどうか。まぁならないだろう。照会しようがないし。
ってところから考えると、転職の面接のときに言葉と文書でスキルとか経験を説明させるよりも、実際何ができるかを見た方が良いような。それが試用期間なのだろうけど、なんだかまどろっこしいような。外国のシステムってどうなっているのだろう?
やれやれ。
なんだっけ。法律の話だっけ、影響の話だっけ、説明の話だっけ。
解釈の二分論を昨日勝手に作ったけど、本当は境界なんて曖昧だろう。
法律の解釈だって同じようなもの。そもそも法律ってどうしても価値観が相容れない人たちの調整のために生まれたものだから、法律で区分された組織って連携ができない。これは私的な社会生活の人口層を反映しているから、法律の不備に文句を言う筋合いでもないだろうけど。
PTA問題とか教師問題で、ある憲法学者のTwitterを見ていたのだけど、やりとりで何かが発展している感じが全くしない。この学者さんのことは昔ローカルでブログやっていた頃から好きだった。ローカルの時はかなり専門的な憲法学の話で、それに相応した読者ばっかりだったから、コメント欄も楽しかった。
でも、公的に特定の素人さんと関わるのは悪手だろうなって思う。争いは同レベルのところでしか起こらないっていうのは心理だし、そういう意味で大御所の大学助教授が土俵を下したら、変に見られるだけ。当人は相手に合わせて下げているのだろうけど、それを見た周りがどう思うか。
学問の自由のところで、専門家の職分みたいなことも語っていたのに、何をしているんだろうって見ている。教育者が自分の都合の良いように教え子を見ているみたいなことをTwitterで問題提起してどうなるのか。もっと大きいところに影響力ありそうなのに。都合良く教え子を見ない本当の教育者なんて、僕が院まで行った中で数人しかいない。むしろ教育機関の外の人の方が面白かった。法曹三者。
教育もある意味解釈の話だと思う。専門的な仕事でなくても教育はあるだろうし、子育ても一種の教育で。この時に、成果が上がらないことを自責にするか他責にするか。これって他人の人生を左右するものだから、なかなか責任重大。
自分が何かを教わった経験を思い出した時に、知識だけとかスキルだけしか教わらなかったって思うなら特に問題ないけど、人格そのもの承継があったって思うならそういうこと。
付け焼刃は、被教育者にも見えている。
あと、どうでも良いけど、やっぱりコメントに時間も労力もかからないところは良くないなって思う。身近だけどコメントする側に対価がないから、みんなやたらと強気になる。
だから、美術館とかオフラインの劇場も残るし、残さなきゃいけない。
そこでは観客は匿名的な人から物理的な固有の個人になるから。もともとは匿名になる場だったのだろうけど、逆転している模様。機能としては普遍的な気がしないでもない。抽象的に感情移入できる場っていうのがあったのだろう。もっと遡るとニュースとか風刺みたいな意味合いもあったのだろうけど。
僕は基本的に自分の責任でしか語っていない。間違っているとかおかしいっていう見解もきっとあるだろうけど、他人のものさしで語るのはしんどいから。
あとなのだっけ。
ちょうど良さか?
書きながら思い返しだすと文字を忘れる。
なんだかんだ、今のところ都合の良いようにしか世界が動いていない。究極の楽観主義だと言われればそれまでだけど、本当に限界間際になりそうなときにだいたい好転作用があったりする。これを守護霊とするのかどうかは知らないけど、運だけはやたらと凄い。その分ギャンブル運が全くないけども。
そういうものさしで言うと、巡り合わせの縁っていうのが凄く大事だったりする。単に自分に代替的な好意を持っていた人はどんどん淘汰されていくのだけど、そろそろ同性の縁が在っても良いかなと思わなくもない。
時間を含め、対価がかかったことを語るのではなくて、対価をかけたことを語れる人が良いなぁ。自分が決めてしてきたのだって。
面白いことに、営業職の友人は発話を綴るのが得意なのに、対価をかけたことに関しては主観的なものだから口が滑らかではなくなる。後ろ盾がないっていうのは手探りで語るしかない訳で、こういう風に語れる人が好ましい。ここには定型文がないがないから、いちいち言葉を探さないといけない。
そういえば、離職票を探していた経緯で、前々職のことを思い出したのだけど、ほとんど他人と話さない(話せないではない)人も、なんだかんだ良く話してくれていたなぁって。これってなんでかって言うと、相手のことを見下さなかったから。他意がある葉ってきっといっぱい浴びてきただろうし、きっとそこには敏感なはず。
今戻ったら、もっと職場全体効率的にやれそうだなとも思う。一番いきっている後輩を完封するとか。波風立てずにどうやるかっていう風にやってたけど、次は波風立ててなんぼになる。
過去の解釈とはこうあるべき。自分が進んだ分、過去の自分の待遇が世界線っていう意味で変わる。今だったらあのときこうできたって。っていう意味でいうと解釈は学習とも等しい。
なかなか自分の先が楽しくなってくる。
楽しんでなんぼ論。交渉するところは事務的に一杯あるし、会ってみたい人もいっぱい居るし、どんどん自由になって来ている。
自由論で、明日というか今日の登録会はめいっぱい自分の価値を吊り上げる体で行ってみようかな。笑
僕が自由だっていうのは、嗜好があんまり偏ってないなっていうところにある。読書だったら偏在しているけど、今時そんなに本が読める時間がある人って全然居ないし。対価がないところに時間をかけられるのは時間に余裕がある人だっていう観念もおかしいと思っているけど、育児の合間に無茶苦茶本を読んでいた特例も知っているし、具体的な人それぞれ。
もっとあった気がするけど、とりあえずおしまい。