硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

何を信じるか

諸々の事務処理をなんとなくこなした。母親との電話もそれに含まれるっていうのもなかなか変な話だけど、エネルギーを使うという意味では変わらない。もう1つ退職したところの管理部の人とも話したけど、電話応対の人でも細かい違いがあるよなぁと。

 

人と接すること自体がエネルギーを消費するものだし、通話もきっと仕事じゃなければしたくないっていう人も多いはず。誰かと接する方法としての通話って、今時かなり贅沢な時間の使い方。肉体が接していれば他のことはできないのが前提だけど、通話だとほんとうに合意の上なのかは分からない。知らないけど。



別こういう話がしたかった訳じゃないような。



母親と通話したときに、関西圏から離れることになったら、今年の試験は受けないことにしても良かったって言ったら、もうそんな時期ではないだろうって言われた。何をもって時期としているのかも分かるし、1つの正論だろうから反論はしなかったけど、そういう意味で時期を語るなら、とっくに終わっているだろうに。あと、夏ぐらいに家に泊まりに来るとか言ってた。一人暮らしの異性の子供のワンルームに泊まりに来る冒険心は賞賛に値するけど、基本的に人との距離感測る能力が乏しいんだろうなって思う。もちろん遺伝している。宿泊費を節約したいっていうのは分かるけど、僕が関西圏から離れたかった思考の一部には、母親からもっと距離をおきたいっていうのもあったはず。



元気の定義も良くわからないところだけど、元気じゃないと接せられない社会ってなにかおかしくなかろうか。人がおかしいのかどっちか分からないけど、なんでこんなにしんどくなったのだろう。しんどいみたいな言葉もきっと遡っていけばなくなる歴史上の点もあるだろうし、いやいや、どこかには非言語のしんどさっていうのがあるっていうのも分かる。



人の生涯賃金みたいなことはよく聞くけど、一人の一生のために必要な資源って他の動物に比べたら途方もないだろうなって。清潔な水を作るための資源、栄養価と糖度が高くなった野菜を作るための資源、電気、土地、建物もろもろ。地球からしたらもっと節約しろよって思っているかもしれない。まぁそうやって長生きないし生き残れるようになったことで、アレルギーとかガンとかが発現したのだろうけど。




やれやれ。

 

人のアウトプットって、きっと自分がインプットしたものを越えられない。インプットの中に汎用性があれば分からないけど、汎用性を決めるのはインプットだろうし。

 

ということで、お風呂読書に中学理科の参考書も入ってきた。中学でやったことってだいたいテスト前に教科書ざっと見たらなんとかなっていたけど、全然身になっていなかったから大学受験失敗したのだろうなって思う。今更だけど、時期的には遅くない。中学理科も

全然なんとも思っていなくて、期末テストでまぁまぁ良い点出た時に、全然勉強してないのに取ったのかってクラスの人気者に言われて、うんとしかいないくらいにやっている意識がなかった。もしかしたら覚えていないところで教科書読んでたのかもしれないけど、こんなの勉強じゃないし。多分勉強していなかったから中学校では成績が良かった。

 

勉強の定義って、おそらく自分を勉めて強いるしんどいもので、そのしんどさがないと知識を得ることはできないってことなのだろうけど、しんどさを意識しなかったことのほうが覚えているのは何故だろう。

 

これもきっと生きるしんどさと近いところにある。

自分に対して義務だってするからエネルギーが必要なんだったら義務でなくしてしまうといい。自分を投げうってそこにだけ時間を使ってきて成功した人はそれを標準として語るけど、それは1つの方法論でしかないような気がする。




そうして、なんだっけ。



いずれにせよ、なにがしか社会的に成功しないとここに書いていることに信憑性はないか。だからと言って、信憑性が出てきてしまったらもうこういうことは書けないだろうなとも思う。



なんの話か分からないけど、おしまい。