窮屈論
何も考えなかった日。動けばきっとなんとでもなるから気にしていない。人は何かをするためにエネルギーが要るのではなくて、何かをしているから自家発電できる。新しいことができないときに躊躇するのはこういうところからなような。エネルギーが消費されるっていうことより、価値観のパラダイムの転換を無意識で拒否しているような。
まぁいいや。
なんだろうな。自分の価値観の歪さ。
人と語るのに後ろ盾を必要としていることはおかしいと思う。年功も経験値も完全に自分で積んだものではない訳で。基本的に人は別に人と語りたくなくて、自分を認めてくれる人、は言い過ぎか、自分の話が通じる人、を求めている。
僕はあんまりそういうことは求めていない。
求めているのは、話に付いてこようとする人じゃなくて、そんなこととどうでも良い、でも好きっていう人なのかも。
思想とかこの日記でどれだけ共感されても僕には何も響かない。
なぜなら別にそういう意図で書いていないから。
変な話だよなぁ、綴っている誰もが顕示欲のためだと思うところ。
人としての基本的な欲求が欠けているっていうのはなんとなくわかる。
生物としての欲求はあるけど、人間としての生物的欲求はそもそもがねじ曲がっているから。
ともあれ。
少し真面目な話。
介護って、今や必須のものだけど、なんで給料が安いとか施設がおかしいかっていうのを分析した。
国家事業ではあるし、国家資格の枠もある。でも、国が力を使わない意味も分かる。
国は1つの企業であって、継続を至上とする。もう一つ、人は資源っていう量り方でいうと、医療とか健康に力を使うのは、人材資源っていう意味では力をいれてしかるべく。
医学は、人材資源を市場に戻すっていう効果があって、製薬業界にも繋がっている一大マーケット。経済効果って国からすれば国民の生き死に繋がっているから馬鹿にできない。
で、この観点で介護を観ると、どれだけ力をかけても人材資源としては返ってないから国としては旨味がない。凄く時代遅れだと思うけど、なまじ歴史が長いからそういう感覚になっているのかな。
国も企業も新しい人ばっかり求めているけど、新しいが都合が良いかどうかで見ているからこんなことになっている。
都合が良いもマジックワードだから、捉え方は人によりけりだけど、相手が自分の枠内で自分にとって気持ち良い反応をしてくれるっていうのはあんまり面白くない。
あぁ夜更かし。
結局は枠の話なのだけど、枠に括ろうとする人は駄目かもなぁ。
おしまい。
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