威を借る
目覚まし時計についている温度計では20度を越えたのだけど、やたらと寒い気がする。体温より低いのは当たり前だけど、寒さ暑さの体感も良くわからないところ。精神はきっと作用しているだろうな。
北海道のサラリーマンの死因のトップは凍死だって友人に聞いたのだけど、本当かどうかはともかく、人間の恒常性っていうのは人間が栄えたことの一因だろうけど、こころがマヒすることとも繋がっているから、人ってなかなかやっかい。
さておき。
パソコンをよくよくいじっていたら、オフィスソフトを再インストールできた。オフラインのWordは反応早くて良い。バックアップはここに限ってはどうでも良いし。坂口安吾さんは何かのエッセィで、自分の脳内をアウトプットするのは手書きしかないから不自由だって言っていたけど、あの人が今タイピングでアウトプットしていたらどうなるなろう、とか。
そうして、たまたまBGMで流していた大橋トリオさんが、ちょうどよく、「すべてはタイミング」って歌った。
ところで。
今日の夢はなかなか良かった。
ある人が自分についてインタビューを受けていて、なかなか良いコメントをしてくれるのだけど、最終的にはあまり好意を持っていないってばっさり切ってくれるという話。夢に出るほど物理的な接触ないのだけど。
もうひとつ道を逸れるけど、今の世の中規制が増えてきて、育っていく子供大変だなーっていう話をしていたけど、時代のバイオリズム的には恵まれている方かって思わなくもない。治安維持法も踏み絵もないし。
冒頭と繋げていくと、人は今に慣れるから、今生きている時代が人類史の中で固有だって思い込みがち。自分を固有だって思うことは構わない。人が過ごす人生はその人しかたどれないし。空間と時間の意味で。
そうして、現象学の新しい本も読み始めた。肯定と否定がゆらゆらしていて読みにくい人にはそうかもしれないけど、その間にあるものかなと思うと面白い。この話はそのうち。
ほんで、本題。
自己実現の話。
たまたま全然違うところで2回目に触れて、法律学について思い出すという。
自己実現って、字面ではなんとなく分かるけど、この言葉の文脈分かっていないとこの単語はきっと出てこない。自己啓発とも違うし、おそらくもともとは社会学が哲学か心理学が起こり。
2回目の人は法律をやっている人だったから憲法の表現の自由由来なのだろう。表現の自由とはなんぞやっていうと細かすぎるから省略するけど、自己なんたらっていうのが出てくるのはこの自由の機能の話。
表現を交わすことで当人の人格が社会的に発展するのが自己実現ってことで、もう一つ政治参加する自己統治があるけど、これはズレるので。
でも、この法学的な考え方も戦後の権威の学者さんが人はもっと公的を述べていいっていう意味で表現の自由だけデフォルメしたんだろうなって勝手に思っている。表現を交わさなくても自分が発展することもあるし、営業活動で自分の価値を見出すかもしれないし。
そもそも、「自己」を「実現」するってどういう意味なのだろう。二回目の人は妻子持ちでフルタイムで仕事をやりながら自己実現しているっていうことだけど、配偶者と子供が現実化している時点で、当人は実現してないだろうか。まだしてないって言うなら、この家族は幻想なのかしら。
一回目の人がどの学問から持ってきたのかも分からない。自己実現ってそんなに一般的な用語なのかしら。
僕の中では自己実現って、主語じゃなくて、こういうことで自己実現になりますよっていう外からの触れ込みにしか見えないのだけど。観察された評価の大量生産。
そんなこんな、法律学に戻ってきて、やっぱり面白いなって思う。
中身省略。
自己は
実現できるものじゃなくて、ただ在るものだろうっていう説。