ユートピアなんてどこにもない
万博の開催地が大阪に決まったらしいね。PR映像をたまたま金曜日のランチに行った元町の居酒屋で見たけど、日本人の贔屓目で見ても他の開催地より魅力があるとは思わなかった。ロビー活動がうまくなったということなのか、良いことだ。
ともあれ、科学技術に対する価値観の転換というのはありそう。今の技術でまっさらな土地に何を創れるか。開発って既存の建築物が前提になるから、なかなか完全に新しいことはできないはず。愛知万博で何か変わったかって言ったら微妙なところだけど、技術も違うし、その前にオリンピックもあるからどうなるか分からない。車が空を飛ぶというのはさすがにまだ無理かもしれないけど、自動運転自動車というのはありうる。
素朴に考えて、技術転換は外からやってくる。
時系列で考えても、僕はちょうど通信技術の発達とともに育ってきた。公衆電話しか使えなかった小中時代、携帯が導入された高校時代、スマホは大学卒業後だったかな。無料通話ができるアプリ自体が考えるとおかしい。
ということで、今の時系列、どんな新しいことが出てきてもそんなに不思議なことではない。
この辺りをありえないと思うっていうのは、経験の不可思議。どれだけ新しくても当たり前になってしまえば、仕組みはわからなくても道具になる。
こういうところから、人は本当に進化しているのかっていう命題。
時間の方向性を逆にしても同じく人は進歩しているって考えることもできるという話。
中身は個別的に考えてくれるといい。
そうして。
色々突き詰めて考えていくと、生きる意味はなかろうってことになるだろうなと。
何処の宗教家の結論だってことになるけど、意味がないと生きられないっていうのは重すぎる。
意味とはそもそも何かっていうと、その人が生きている世界の中での外から肯定されるもの。分かりにくいな。
僕の場合の意味付けは、文系最高峰の試験を落ちまくっているけど、信念があるからやっているんだろうっていうところ。甘んじて受けているけど、個人的には全然そんなことはない。全然は言い過ぎだけど。
本当の所だと、僕がやっていることに意味は全く無い。
意味があるっていう評価をする時点で対価があるっていう天秤思考。僕は別に帰ってくるために動いている訳ではない。
つまり、意味で考える観念で捉えられると窮屈になる。
けども、人が人を見る視点ってきっとここが前提だし、ほとんど本質で構わないだろう。
僕は自分を意味で縛らないし、他人を見るときにそう、というだけ。
この観念は孤独に繋がるのだけど、対人関係の暖かさは意味の外にあるから。
文字数少ないけどここまで。
僕は自分の日記を一種の絵みたいに描いている。
おやすみ。