硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

誰かを分かる為には自分を分からねばならない

 

 

応募書類関係を整えようかと思ったのだけど、諸事情により他のことをしていた。弁当も作る時間ないかなと思ったけど、蓄えとレンジでなんとかなった。昨日のメインと、スライサー千切りの大根と人参のきんぴらと、ちょっと美味しいスクランブルエッグにしようと思って、塩コショウとマヨネーズを加えてしっかり混ぜて、バターで作って、ケチャップをちょっと。

 

 

さておき。

 

頭に栄養が行き過ぎて、フォルムが歪なことになっていると言われた。これは、父譲りの頭蓋骨と祖父譲りの体の骨格の歪さのせいだと思っているのだけど、まぁ、見てくれは見た人の評価による。自分が歪だなっていうのはなんとなく分かっている。線は細いのに、手はゴツゴツしていて指は太いし、体幹のところの薄さも肋骨が浮いているのも別に通常営業で、遺伝の継ぎ接ぎ感がある。

 

そうして、頭が大きく見えるのは、頭を使って脳味噌が育ったわけではなく、自分の頭の形とくせ毛のせい。上手く切ってくれる人じゃないとそうなる。

 

 

ともあれ、別にこの継ぎ接ぎ感をコンプレックスって思っている訳でもない。ギャップが器にもある、というだけ。

 

 

全然話が進んでいない。

 

 

人が嫌いになれないっていう下りで、僕が自己主張しない人の話をあえて聞くようになったのはいつからだろうって思ったら、あまり面白くないところに至った。

 

だいたい大学くらいに止まり木になったなぁって思ったのだけど、その要因はなんだろうって分析すると、誰にも何も自分を表現できずに死んでしまった父親の話を聞きたかったっていうところにあると思い至る。

 

誰かに話せるなら僕以外でも良いけど、僕だけにしか話せないっていう人には、そういう窓口でありたいっていう、ある意味懺悔的な行為。だから、僕は発話したいからしているっていうより、聞くための発話をしている。本当に聞いてくれる人なんてファンタジーと思っている。

 

話すための発話がここにあるのかっていうと、そんなこともないし。

僕は別に誰かに主張したい自分の見解って全くない。ここの発達段階が幼児レベル。

でも、需要と供給の世界では生きていける。希少価値で。

 

 

全然進まなかったなぁ。

 

 

最後。

 

世界の複雑性と減縮性なんてあたり前だけど、これが社会学コレクションに命題として出ているってことは、一般の人にとっては当たり前ではないってことなのだろうなと。

 

ある個人が生きていく上で、思考とか言動はどうしたって物理的な限界があるけど、可能性としては、相対的に無限に近い程ある。でも、生きていくには何かを選ばないといけないし、思考の幅だって生活に合わせないといけない。

 

拡張しているっていうのは、別に意思を持ってやっているのではなくて、単なる自分の可能性の追求をしているだけ。

 

 

おしまい。