自己観
鼻が詰まると味覚は7割くらい鈍る。
味覚は人それぞれっていう共通認識はわりとあるはず。とふと思いついたのだけど、きっとそうじゃないな。疎通の道具としてあまり力がないから、それぞれ我が城で良いってことかなと。一緒に生活するようになると合戦になるけど。
最初の流れとしては、味覚では戦いにならないのに、語彙とか色覚だと自分が遣うように見るように他の人も捉えていると思い込むのだろうっていう感じのつもりだった。けども、そうでもないだろうなって。だいたいは自分が五官で感じていることは他人も同じように感じているという認識のはず。それがズレた人が違いに気づくだけ。
という前置きにしたのは、明日出かけるのに備えて今日服を買ってきたから、ボトムスとインナーとアウターの色味の組み合わせを頭の中でやるのだけど、僕の頭の中は結構色彩が偏っているなと思ったから。買ったのは、濃いめの緑のチノパン?と、えんじ色のシャツ。
アウターはネイビーのボアコートかなと思っているのだけど、グレーのチェスターコートでも良いかもなと思っている。味覚はもう完全に我が城になっているけど、色覚も独立しつつある。
色盲っていう症状があるけれど、色に対する感覚も人によって濃度があるのじゃなかろうかって思っている。単純に視力の問題もあるし。僕の視力(1、5)の解像度と、他の視力の人の解像度は違うだろうし。
ここでいう独立というのは、流行りとか常識とかではなく純粋に自分に合うかどうかということ。そぐうっていうのはすなわち心地よいということで、これは好きと評しても良いはず。
で、もう一つ色覚のズレっていうのがあって。
例えば小説とか、会話している時でも良いけど色の表現が出てきたとき。色に対する観念はどうしても一致しない。でも、中核が一致しなくても、外延は広いからなんとなく通じる。
この辺りに言葉が発達した理由があるだろうなと思う。
中核にある意味よりずっと広がりがある。これは言葉がそういうものだっていうより人が物事をそういう風に認識して伝達するっていうところにあるような気がする。
言葉といえば、今日服をかったついでにブックオフに寄ったら、英和辞典がやたらとアピールしてきたから、反射的に買おうと手に取った。でも、店内を回っているうちになぜか止めた。理由は色々考えられるけど、今の時間管理だと積ん読になるから意味がないっていうことなのだろう。わくわくはした。でも、どうせならまっさらな最新版の方が良いかなと。英語の意味だって日本語と同じように変遷するだろうし。
さておき。
昨日の続きだけど、なぜ評価を享受できないかっていう心理分析。
なんだかセルフ・カウンセリングみたいな話だけど、色々収集しているのはそのためっていう側面もある。
十代を翻ると、基本的に何か汗をかかなくても評価されるという環境だった。
精神世界とその現実化に対して特にセーブがなかった時代。その時代でさえも、自分が評価されることに嬉しくは思っていなかった。普通にやっているだけであって、外からの評価はどうでもいいものだって。端的に言うと勉強の話。
小学生の時は運動も相対的にできた方だから、完全に日の当たる側に居た。
勉強でも別に順位がつかないから、自由にできたし。
そうして中学生になると辺境の地方でも順位が着く。
最初のテストで一番を取ってしまうと、何か自分の中で混乱が起こったんだと思う。変にセーブした方が良いっていう観念が芽生えた。何やら対抗する人も出てきて、漢字テストで勝負したりしたのだけど、僕は全然時間をかけていなくて、相手は勝つためにさんざんの努力をした結果が同点っていう。あとは、理科のテストで86点の一位を取った時に、全然勉強してないんだろうって言われて答えに窮した時とか。僕は一位になることに興味はなかった。同じ小学校から来てた人が2位だったのかな、その人は塾に行って一位をキープしてたのだっけか。
その時代の僕も今の僕も評価されるために収集しているわけではなかった。
あの時代に今くらいの情報が採り入れられる環境だったらもう少し違ったのかとは思うけど、このときの僕の世界はここにしかなかったからしょうがない。
小説を書きましょうみたいな国語の授業があって、ちょうど読んでいたうしおととらっていう漫画の秋葉流を主人公とした二次創作をした。手を抜かないといけないみたいなやつ。
高校になるともっと順位が丸見えになる。
ほんと嫌だったなぁ。型にはめてその型ができる人が優遇されるという感じ。
なんだかんだ選抜クラスの中の上に居た意味も分からない。
自分の頭に対して自負がないっていうのはここにある。自信とは関係ないところに在るから。
これとは別に、本質的な阻害要因は姉にあったのかなって思っている。
僕の十代の生活では、母親は神様みたいなものだった。天災レベル。で、姉は王様だった。劣等感の裏返しなのか、僕を従属させようとする抑圧が酷かった。一般的な姉弟関係なのかなって思っていたけど、奴隷契約書みたいなものを作成する辺り割と異常だろう。
祖父に関しても、自分は頑張ったのに、なんの努力もしてない弟の方が評価される、なんでだ、意味分からんみたいな、認識もあったはず。その分この人は評価されていないと生きていけない人になった。社会的にはまとも。自分のために人間関係を構築できるという意味で。
私的生活は乱れたけど、今はちゃんと折り合えるようになったかは気になっている。
でも、この王様的世界観ってかなり汎用性がある。
自信とは、自分の成功体験の積み重ねだけど要は、自分という他人な訳で。
自分と言う名の他人目線の話は、どうしよう。
やめとこう。
そうそう王様の話。
事あるごとに否定的な評価を投げられていた。まっさらになったのは、姉が家から離れた後だけど、それでもちくちくやってくる。
幸せを享受してはいけないっていう刷り込みの一番有力なのがここ。
有力説だけど、仮説に過ぎない。
本当に問題なのは、自分を蔑ろにした人の行く末を気にする観念ではなかろうか。
姉に対して血が繋がっているからどうのっていうことは全くないのだけど、それでも今どうしているかは気になる。
気になるっていうのは、脳の領域をそれで占めるっていうことであって効率的に生きるとは反対方向にある。気になるっていう次元で言うと、小学校から大学院から職場まで、関わって来た人がいっぱい脳のどこかに居る。効率的に人生を過ごすには不必要だけど、どうしようもない。
主体っていう観念は何にも囚われてないっていうことになっているけど、その観念自体が従属的なものだという話。何に従属しているかというと社会なのだけど、あまり誰も気付いていない。気付いてないっていうか、知らないから分からないっていうことか。
例えばとか話しだすときりがないからやめとこう。
単語としては、同性愛とか部落差別とか。
そうして、僕がコミュ障に見られる理由。
選択肢が多すぎるから反応が鈍るところ。
最後。
天才とはなんぞやみたいな本を読んでいる。
今、最後のニュートンなのだけど、なかなか恐ろしい人だなって。自分の観念を世界に影響させてしまった人。原因には結果があるっていう物理現象を解明して天体の運行の計算式まで発案してたのだけど、この原動力まで遡るとなかなか悲しかった。神様とは機械仕掛けのものだっていう観念。多分一般的な伝記には収録されてない話。
つまり、この人が創った観念が現代世界。
凄いけど、一種の呪詛だろうなって気がする。
半端ない。
物理とか数学とか変な記号にはうといけど、そこでやっていることって、1つの社会での言語論理だろう。
論理といえば、僕は私的な部分の疎通に論理は要らないと思っている。
論理ってなんぞやっていったら理由付け。理由なんて居るかいなって。
あまり自己カウンセリングになっている気はしないけどおしまい。