匿名的展望論
明日は弁当を持参してはいけない日だから、今日は冷奴とサラダと肉の大きさを気にしなくてもいい生姜焼きなぞを食べている。大根とトマトが安くて、この組み合わせのサラダ好きだからラッキーだった。
明日の最後の昼食会はなかなか楽しみだし怖いところもある。次の仕事大丈夫かって聞かれたときのためにあと何日かで返事をすれば来週から研修に入るところはありますって準備しているし、ここの職場どうだったって聞かれたら、貴重な経験をさせて頂きましたって答える。実際色々吸収できてよかったし、個人個人として区切れば皆良い人だった。
ただ、つい先日辞めた二年くらい働いていた同い年の女性は同じ界隈の別の所に就職したらしい。条件が良かったのか環境が良かったのかは知らないけど、転職へのエネルギーと特に問題なく努めていた安定を天秤にかけて、前者に振れたっていうのは何某かがあったのだろう。今日も電話の取次の仕方で、先輩に聞いてそれ通りに処理したのに、取次先の先輩に違うように処理しなさいって言われた。誰の言うことが正解なのか分からないけど、家族みたいな属人的な職場だから、その人がやるそれは正しいけど、新人がそれをしたら正しくないということになる。
よく分からないけど、生産性にも円滑性にも繋がっていないこだわりが許されるのは、立場が確立されているからなのかな。
もはや新人は定着できない職場だと思わなくもないけど、期間満了で更新がなかった分際の自分が考えることでもない。
さておき。
そんなこんなで、自分は何がしたいのか、何ができるのかみたいなことをぐるぐると考える。
素朴な僕って自己評価っていうのが功績とか競争とかでは無理だから、誰かの為になることで、まぁ生きていて良いのかなって思える。
っていうことをデフォルメして最終面接が控えているところの一次面接で、誰かの助けになりたいんですって言ったら、鼻で笑われながら、それはこの業界でってことですよねって言われた。まぁ確かに仕事って社会貢献とかなんだかあるけど、これはオブラートで、中心には自分が生活していくためっていうのが不可避。物理的に生きていけなければ他人に思いやりなんて振りまけないし。
でも、本当にそうなのだろうかって疑問がある。
こういう疑心暗鬼みたいな世界を創った資本主義ってなかなか巧みだと思う。
思いやりの交換をあえて排除している。思いやりも定型文とか品物で良いっていう。
個人的にはこういう価値観の転換はすぐそこだと思っているけど。
最後。
何をしたいのかが分からないなら、何を得たいのかで考えると、僕は何かをしたいっていうより何かを知りたいっていうところになる。知りたいは資本主義では無価値だけど、個人的関係では相手を嬉しくさせたりする。
じゃあどうなのだって言ったら見解が収束していないけど、まぁこの方向で良いかなって楽観自己評価している。
おしまい。