考える葦
なんだか時間が押してしまった。この連休は夜にしか外に出なかったから、月がよく見えた。今夜は半分弱の月。光量は凄い。ついでにオリオン座もよく見えた。都会でも目を凝らせば見えるのかも。
さておき。
何もやっていないようで頭は回している。頭の回転っていう言葉があるけれど、個人的には車輪のように進むっていうよりは、ドリルみたいな螺旋に近い。自分が分かることが進むっていうより、分からなかったことが分かるという意味。
対象は別になんでも良いし、それは実践している。
書いたっけかな。
家族論。ちょうど社会学の本2週目でも出てきているけど、家族の観念っていうのは全然個人的なものではない。その時代時代にあるべき家族の姿っていう基準があって、それとの対比で家族の位置を決める。あるべき父親像とか母親像とか子供像でも良い。
そうして、自分が育った家庭がどうだったかっていうのは、他の家庭を知らないと比べられない。遊びに行ったくらいでは無理だし、当たり前のことは言葉にできないから、結婚して初めて他の家庭を知るっていうことも多いのかも。
自分の家庭が当たり前ではないって知識として分かっても、実践としての体や感情がついていけないっていうこともきっと多い。
ともあれ、一般論は知らないから個別論から考える。
僕は、我が家の家族がおかしいのは、なんとなく分かっていた。時々は家族っぽいけど、家族とはこうあるべきみたいな母親の思想がって感じて居たのが思春期の辺り。未だにまともな人間関係を構築できないのはここにある。
ただ、今思っているのは少し違う。誰にも余裕がなかったっていう所が強いんじゃなかろうかという説。癒やし癒やされるっていう観念が誰にもなかった。どこにも逃げ場がない。僕の場合は幸か不幸か理想の子供像としての条件の学力っていうものがあったから、あまり攻撃はされなかったのだけど。まぁ男だったからっていうのもきっとある。
そうして、姉は我が家系と離れてしまったのだけど、理想の家族像を求めてそうしたとしたのなら、きっと同じことになる。という危惧。結局バツイチになったようだけど、その先に再婚したけどどうなるか分らないし。合わない人とは離れていいっていう観念が付着してしまったのでは。変な話、実家に見せたし、ある意味ちゃんとした家族論の義務は実行したともいえる。妹も同じことはしているみたい。
僕がゲストなのは、一切そういう家族論を履行してないからだろうなと思うのだけど、螺旋の思考は今回実家に帰って少しは現実化した。聞きたいことを全て聞けた訳ではないけど、母方の家族も全然一枚岩ではないっていう事実は聞き出した。
長男は34歳で婚約して家督は継いでいないし、次男は自分がやっていて事業が失敗しなかったら実家に帰ってくるつもりがなかったとか。父方の家系は逆に妹二人で嫁いだだけだけだから、なんとなく家督相続がきなくさくなっている。まぁ僕が継ぐしかないのだけど、実際何を継ぐのだろうって。
そういう訳で、人に歴史在りか。
でも、親族の話を聞いていても、歴史の外のことの方が楽しいし聞きたい。今度母親に会ったら、もう少し聞いてみたいことはある。
で、僕が人の何を見ているかっていうと、きっとその個体の革命的部分。
わかりやすく言うと当たり前から離れた部分。それが多数派から離れた所でも、その人の中で当たり前になると微妙かも。
抽象的になってきたから、もう1つ抽象的な話。
優しさとはなんぞや。
個人的には人に対する評価としてはほとんど使わない。
分析すると、要求に答えて行動してくれる人は優しいかもしれない。これは需要に応える供給があるっていうって意味で分かりやすい。でもこんなの機械でも業者でもできるかもしれないもの。次は、潜在的欲求を先回りして応える。ここまでくると、優しいでは評価できまい。
やれやれ。
ということで、優しさを定義するなら受動的に応えてくれる人が主観論。能動的だと自分ができない親切な言動ができることを優しいと評するのかも。
つまり、優しいっていう言葉自体には何の中身もないということ。
僕は良い人認定をよくされるのだけど、これもほぼ同じ。
質が悪いっていう評価はかなり本質に近いと思うけど、ここの思考が現実に反映されている比率は多分数パーセンくらいしかない。そりゃあ普通は思考は現実に向かうところでしか回転しないから、現実に向かわないところで螺旋運動する思考なんてきっと世界の外だし。
だから現実に不具合が起こっているっていうのは否めない。
ほんとうはもっと自発的に世界を生きられるだろうって。
とりあえずおしまい。