硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

脱皮

マスクをしてイヤホンを付けて外界を遮断して出勤。物理的には圧力がすごいのだけど、なかなか快適。昨日買った単語帳にアプリが載っていて、アプリだと音声が無料とのことだったから、入れて見て今朝出勤するときずっと聞いていた。勉強するっていうより、頭をクリアにするには良いルーティーンかも。

 

単語、単語を含んだフレーズの日本語訳、原文のフレーズがひたすら流れるだけなのだけど、それぞれ脳内の可動域が違う。単語。知っていれば、綴りをイメージするとか、高校時代の単語帳で見たけどどんな意味だったかなぁと回転。日本語訳。英訳できるかと頭の中の単語を並べる。原文フレーズ。こう聞こえるのかって収集。一個一個をかっちり習得していくっていう感覚は、捨てた。というか色々やってきてやっとこうなれただな。

 

英語でいうと、僕は高校時代の英語の先生がほんと苦手だった。進学クラスのスパルタ先生みたいな人で、11文を生徒に日本語訳させていくのだけど、ちょっとズレていたら怒鳴るみたいな。大きな声っていうのがほとんどトラウマレベルで抑圧スイッチ入るところだったから、もう何もできない。単語テストもほんと嫌だった。

 

何が変わったかというと、正解不正解じゃなくて、理解に傾注できるところ。確かに最低限の単語が必要っていうのは日本語でも同じ。でも、自分を省みたら分かると思うけど、日常生活で常用している単語数って、2000くらいが限度では。あとは推測とスルーしながらなんとなく相手が伝達したいことは把握できる訳で。

 

日本語の語彙だって厳密に言えば、聞き取れてかつ意味が分かるもの、聞き取れるけど意味が分からないけど文脈で分かるから会話に支障ながないもの、聞き取れて意味も分かるけど文脈で考えたら整合していないから意味がわからない、フレーズ自体を読み取れない。みたいな細かな分類があるわけで。

 

日本語がややこしいって思うのは、ネイティブだからかなって思う。

ネイティブの人が教えてますっていうので英語ができるようになるのかっていうのもよくよく考えると疑問になる。例えば、これを読む人はだいたいネイティブな日本人だろうけど、外国の人に日本語を体系的に教えることができますかって問われて、できますって言えるかどうか。間違いを指摘するのは誰でもできるだろうけど。日本人同士でもよくやっている。

 

 

要は、時間をかけるっていうのが唯一の方法論なのだけど、この時間は物理的な時間ではない。物理的な絶対時間っていうのはきっとあるけど、物理的な時間をかけるっていうより、吸収率が高い状態をキープすることが大事。

 

僕は持続力が凄いらしいけど、これをするために必要なのは、義務にしないこと。ただやり続けるっていうのが最終型だけど、その前には単なる興味がある。だいたいは、何か対価が将来的にあるから努力するっていう感じで、基本的には馬に人参をぶらさげたら走るのと変わらない。

 

報酬がないと動かないくせになんだか高度ぶっているっていうのも結構な道化みたいに思えるけど、社会の基本ルールでさえそう設定されているからそういうものなのだろう。

 

 

というところで、僕はずっと対価がないときに人はどうするのかっていうのを観察していた。SNSでいう報酬は内面の顕示欲の充足で、それなりの対価関係がある。

 

 

でも、これは論理的に誤り。対価関係があるときでも対価にはならない部分があるから、観察対象が適切ではない。ただ、対価関係があるときの非言語の心遣いって、対価関係を取り去っても同じことをやるのかってなるときっとそうじゃないから、観察対象には含まれるけど、関係が全くない土壌とは前提が違うよなって思わなくない。

 

 

 

そうやっていくと視界が拡がる。

 

そういうことは普通にやっていたなっていう自分の良識の掘り返しでもある。

例えば僕がコンビニ店員だったとき、目まぐるしく来る客の中に固定客が居て、固定客には固定客の癖に合わせて動いていた。毎日行ってるコンビニの店員さんは、なんとなく気づいている感がある人も居るけど、だいたいは、抽象化したお客さんへの対応しかしない。

 

これは別に良いし、不満はないのだけど、観察力がない人には興味が沸かない。

 

観察力の定義は知らないけど、僕の中では自分の範疇の外に目を向けられることだとしている。観察っていう言葉自体がきっとそういう意味だったし。

 

 

とりあえず、おしまい。