硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

非決定論

 

動機は何かの行動の「原動力」ではなく、「語彙」である。

みたいなフレーズを社会学命題コレクションで見つけた。就職活動で志望「動機」を考えているし、なかなかピンポイント。確かにそうだろう。この命題を提唱した人は別にこれを確定して語っている訳ではなくて、こういう視点もあるのではっていう提案くらいの意味らしいけど。

 

ここでいう語彙っていうのは、言葉の意味じゃなくて、共通理解のこと。あれをした人はこういう動機でこれをやったのだっていう理由が常識の範疇で説明されること。

 

確かに人って自他の行動に意味を求める。そうして、その意味が自分にとっても共通であれば納得するという、なんだか変な傾向。

 

動機がアピールだっていうのも命題の説明にあったのだけど、これもなんとなく分かる。何か自分ができないことを継続しているのは、凄い動機があるからって想像するし、そうじゃないと自分の認識が壊れるし、自分の行動にも動機があると信じている。

 

人生の時系列を遡って、動機の発生源はいつだったかって思うと、何の意味もなくしでかした行動に対して、なんでそんなことやったの! って言葉で説明しないといけなくなったとき。

 

行動には何か理由が必要で、誰かの行動にも理由があるのだって刷り込みから始まる。

 

何か目的があるからこういう行動があるっていうのは真だけど、これの対偶はこの行動がないってことはこの目的はないってことであって、目的がない場合でもそういう行動があるっていうことを否定することにはならない訳で。

 

もう一つ。動機はあるけど行動ができないっていう命題。何か条件が整えばとか、余裕があればとか。これも動機が現実的な力を持っていない証左。事後評価でしかない。

 

だって、自分の行動を顧みて、動機を説明できる行為と説明できないものってどっちが多いか考えると良く分かるはず。

 

誰かを好きだからこれをしたっていうより、この行動をしたことは後から評価すると好きってことなのだろうなって動機は後付け。

 

 

そうやって考えていくと、自分が認識している自己像って誰かに事後評価されたものの蓄積でしかないっていう認識に至る。少々飛躍しているけど。

 

血液型のプラシーボ効果は割と知れ渡っているはず。血液型と性格の類型は全然関係ないけど、この血液型はこういう性格なのだって規定されると、そういうものなのだって類型に自分が寄っていく。AB型は自由度高くて良かった。

 

っていうところからの帰結だけど、自分の性格を決めたのは誰かっていう話。

自我が芽生える前後で、あなたはこういう人だって類型で決めてきた周りがあって、その後も他己評価であなたはこういう人だってプラシーボで決められていく。

 

その自分は本当に自分なのですか。

僕が興味を持つ人は多かれ少なかれここまで来ている人な気がする。

 

最後。

 

僕は今まで被ってきたホコリをどんどん拭っている段階。

硯はおとなしいからとか真面目だからとか口下手だからとか、その刷り込みはどんどん取り去っていかないといけない。とりあえず自分の辞書からは動機は削除する。

 

動機がない世界で何が意味を持つのかってなると、結構シビアになるけど、それで良い。

 

僕はまだ自分を決めていない。

 

 

おしまい。