考えたって何も変わらない
大根のはちみつ漬けは全然癖を感じなかった。
おそらく、下の方を使った方が効能は高いし癖もありそう。はちみつドリンクみたいにぐいぐい飲める。効果があるかどうかは不明。プラシーボかなと。でも咳に対するプラシーボは捨てたものじゃないから。
はちみつで水分が出ていった賽の目大根のほうが思いの外美味しかった。一回洗って、塩と塩昆布振って、何をとち狂ったか切り干し大根も足したけど、調和が取れていて美味しい。
すりおろしの方効果は高いみたいだけど、これだと副産物がでないからやってみるかは気になるところ。
さておき。
なかなか冷えてきた。
今年は暖冬らしいけど、ものを考えるのに適した季節になってきた。考えるって言葉にも彩りはあるけれど、考えるっていう概念の中核には、それをすることで何かが向上するみたいなニュアンスは含まれていない。だから、思考力を上げて生活を向上しようみたいな風潮はズレている。もちろん僕の捉え方だけど。
考える、の起源を想像してみる。
言葉の原初は、情報伝達。ボディランゲージでは追いつかない情報を記号として共有するところから。まぁこんなことは動物でもやっているから、たまたま脳の領域が言葉を駆使するくらいの余裕があったということか。このたまたまについての考察はまた今度にして。
で、こうやって情報伝達していくなかで、ふと思いつく。危機を予測できないかって。
この文脈でいうと、考えることは、悪い結果を防ぐための後ろ的なニュアンス。
もう1つの方向性としては、自分に向かう考え。
ある段階までは、自己っていうものは意識されない。自我が芽生えるのは、相手を人として捉える方が先。なんだか発達心理学の話みたいだけど、言葉の発達と繋がっていると思う。
肉体的な発達でも、胎児が成長していく段階って、単細胞生物から多細胞生物になって、魚類みたいな形から哺乳類みたいな。
自己に向けた考える、が前向きではないっていうのは説明要らないような気がするけど。
自分のことを考える材料は自分の過去にしかない。過去を分析することで新しい事態に備えるっていうならなんとなく建設的だけど、そうはならないと思う。
つまり、こっちの方向性でも、何か有益なことはもたらさないということ。
巷で言われている、考えるとか論理的思考なみたいな生活に役立ちそうなやつは、考えているっていうより、その場で何か収益するための方法論で、中核からは外れている。もちろんこっちの方が生きていく上では武器になるから大事。
この話題なんだろう。
要は、思考の本質は現実から離れることにある、で良いか。
閑話休題。
仕事は毎日調和を乱すミスをしているのだけど、ひっくり返すと、調和を乱さないことなんてできないなと認識した。僕が仕事場に居る時点で乱れている。
発見したのが、こちらから質問することで主導権を握れるってところ。
変な表現だけど、だいたいの人が待っていましたと言わんばかりに応えてくれる。そんなに暇なのかって思わなくもないけど、そういう場なのだろうなと。
失敗しまくろうという説。
自己認識の話。
人って、他人にどう評価されているかを自己評価にコピペする傾向にある。
対象が社会だったらしばらくは安定しているから安泰だけど、社会だっていつひっくり返るかは分からない訳で。
評価とはなんぞやっていうと、現象からどう読み取るかってことで、これって正味混沌でどう読み取っても間違いではない。評価で行動を変えるってなるとそりゃあ一大事だろうけど、こんな曖昧なもので行動を変える人とはあまり付き合わなくても良いんじゃないかなって思う。
評価と反射的応対はまた違うし。
最後。
日本語圏の人は世界の中で世界の見え方が独自みたいな話があったけど、それはなんぞやっていうと、言葉の構造として主体から離れやすいっていうところだと思っている。
でもこの世界観は終わりつつあるだろうなっていうのも。
最後の最後。
考える、の面白いところは、なんとなく蓄積から考察できるところ。
例えば、この前考えたこともない題材が出てきて会話していたのだけど、関東圏のJRの駅の周りが賑わっていない理由。なんだか面接試験でありそうなフェルミ推定。
最終的に、こういうことを会話で発話できるってことは、僕の無意識が話しても良いんだって思っているってこと。持論として、人って無意識で自分が発話できる範囲をセーブしているという説がある。
おしまい。