硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

揺蕩う現実

そう言えば、ノルウェイの森のワタナベは大学で演劇専攻だったのか。今日はこの前見に行った演劇の某かが最終日だったらしいけど、流石に行けなかった。残念。でもまぁ一回行けただけで旧来の時系列で行ったら奇跡みたいな巡り合わせだから、充分と言えば充分。契機というか縁起というか。

 

生活とは時空の縛りだろう。とは、の前には仕事でも人生でも恋愛でも、あらゆる社会生活関係のだいたい繋がる。縛りっていうとなんだか窮屈に見えるけど、生物ってたぶん何かしらの拘束がないと共存できないってことなのだろう。

 

死について! で宗教関係の話を良く読んでいるからだろうけど、運命論について考えた。これがどういう背景で生まれたかっていうのは想像するしかないけれど、おそらくもっともっと人が縛られている時代に生まれたのだと思う。身分で生活が区切られていたし、どうしても身動きできない階層の人に対して啓蒙する意味でもあったのかな。抑圧の緩和のためのシステム。あとは、人種差別もあっただろうし。

 

ただ、思うのは、人の生活には慣れっていう恒常性も存在していて、どれだけ便利になったとしてもそれが当たり前になったら次々と不自由を探すことになる。自由を探す方向にはなかなか向かわないのが不思議。

 

僕の世代なんて技術革新の真っ只中だって思うけど、どの世代だってこんなものだよなって冷静になる。別に特別なことなんて何もない。システムは理解するものではなくて享受するのが何の弊害もないやり方。

 

今や交信も通話もほぼリアルタイムでかつ無料できるのに、それでも足りない。おそらく次の技術は感触とかも含めてリアルタイムで接するところだろうな。その後は何が足りなくなるのだろう。そうなると、自分の肉体だって自由自在になって、何が個人を識別することになるのかっていう問題は出てくるかもしれないけど、そんなことは慣れでどうとでもなる。実際匿名性には慣れつつあるだろうし。

 

記号の需要と供給。

 

 

やれやれ。

 

なかなか壮大な話になっているけど、巡り合わせの話。

 

確率論でいうとあらゆる巡り合わせは等価で、共時性論で言えばたまたまが意味を持つことになる。どちらも意志みたいな当人の変化を見ていないから、あんまり採用できないなって。どちらかというと、意味があるっていう寄りだったけど、これってどちらも現象に対して受動的。

 

この世界論だったらパイプドリーム(演劇)に辿りついていない。

 

 

能動的な世界ってなんだろうって言ったら、自分の時系列で培ってきた当たり前をあえて自分で崩すこと。ある意味自分の世界観を壊すことだから危ういといえばそうなのだし合うか合わないかもきっとある。その解放された自分が誰かに需要があるのかっていう不安もあるだろうし。

 

僕はまだまだ自分を分解することが足りないなって自覚しているから、まだまだ壊れる。

 

 

おしまい。