硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

拠り所

 

食欲はなんとなく戻ってきたかも。炭水化物とタンパク質が多い。昼は肉々しいものにしてみようと思ってコンビニの揚げ鶏。そろそろ新鮮な野菜が食べたくなってきた。明日は作れるかな。どっちでも良いけど。ちょっと調べていたら、納豆掛けご飯1食で生活している猛者が

 

 

さておき。

 

昨日変なことを考えていたから、今日はあまり社会に馴染めなかった。

当たり前の共通項とされている前提が実感できない感じ。なかなかはみ出しているなぁという気分でお風呂読書していたら、なんとなく力づけられた。

 

社会学の本は、社会学入門3周くらいしたから、次はいろんな学者が提起した命題とその説明が載っている、筑摩書房社会学命題コレクションというやつ。引用した方が良いのかな。

人格の話。まるごと引用するとコピペが好きな人みたいで嫌なのだけど、わかりにくししょうがない。

 

「人格とは、文化の諸要素を個別的な様式で結合させたものである。それらの要素は集団に所属することによって個人へ伝えられる。したがって、個人が所属する集団の数が増せば、それだけ、人格はより個性を発達させることになる。」 Gジンメル

 

より分かりにくいか。この命題を現代文的に分析すると、文化は個人が属する1番大きいもので、国だったり、世界だったりでもいいのかな。その中に集団っていう人の集合があって、集合の中に個人が在る。文化の諸要素っていうのもよく分からないけど、価値観とか性向とか好き嫌いとか判断基準とか、人格の要素とされるあらゆる要素が含まれているのか。集団っていう観念も曲者だけど、家族とか会社とか学校とかSNSでもいいはず。人格と個性の関係はどうなのだろう。

                                                       

そんな感じで、個人は色んな集団に属しているわけだけど、人格はもともとあるものではなくて、集団から採り入れた要素の集まりと濃淡でしかなくて、任意的に決められるものではないということ。これで何が救われるかというと、ある個人が何処かの集団の諸要素に合わないからといって、それはその個人の比ではなくて、その集団が属していない集団にも属しているからズレているというだけ。

 

僕は集団に属していないっていう感覚を持っている人が好みだけど、集団に属していない人も集めれば集団になる、のかな。SNSがちょっと近いけど、同じ帰属意識を持っている人を探して集まる傾向はあるか。同じ集団であるっていう意識の共有は闘争の始まりだと思っているけど、個人間でも闘争はあるし、どうなのだろう。

 

 

あと、シュリンクの朗読者で、決断と行動は別のものだっていうフレーズもなんだか良かった。朗読者ってちょっと心象風景が村上春樹の小説と近いのだけど、村上春樹さんが影響を受けた小説家の中にいたのだっけ。アメリカの作家が多かったような。

 

 

残るは夏目漱石の行人。主人公の兄が、今の日本社会はー上滑りの御上手ものばかりが存在しうるように出来上がってしまっているみたいなフレーズ。これはなんだろうな、別に僕がそう思っている訳ではなくて、こんなこと考えている人もいるんだなみたいな感じ。

 

 

最後。

 

自己肯定の話はどんどん先延ばしになるなぁ。

 

でも、関係あるのかないのか、今日思ったのは、自己肯定感が強い人は自分のことを好きと評価することが多いだろうけど、自分って好き嫌いの対象にはならないのではないかということ。

 

他の人はどうなのか知らないけど、好き嫌いってどうしても比較の観念が伴うと思うのだけど、自分は比較の天秤には載せられないのでは。

 

時間切れ。

おしまい。