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今日はだらだら前置きなし。
演技と信仰と自信と。
きっと根は同じ。
死について! は信仰者のパートを読んでいる。
僕は宗教自体あんまり好きじゃないと思っている。というのは、どうあれ、自分のものさしを相手に共有させるっていう面が否めないから。ただ、この本はアメリカでキリスト教が主流だけど、ここで語っている人達は正しく宗教を扱っている気がする。
宗教の正しい扱いは、自分がどうかっていうところで、共感を得るものではないってこと。
同じ信仰でも神様はそれぞれで良いし、ここでの本質は、神様が居るかどうかはさておき、自分なりの神様に観察されているという感覚。宗教には戒律を守るとか、何かをしていれば対価として救われるっていうのもあるけど、不純物だと思う。
そうして、社会学の本を読んでいたら、演技性の話が出てきた。
社会的に生活するとき、人は自分の行為がどういう風に観察されるかっていうのを前提としてしか行為できないっていう感じの命題。自分は欲求を発散していると思っている行為でも、何処かに観察者が居る。
演劇見て、これって観察者を前提にした表現物だなと思ったのだけど、現実だってあまり変わらない。突き詰めて言えば、自分っていう観察者からは逃れられないのだけど、ここまでいかなくても、誰か何処かに観察者を置きながら皆生きている。この具体例は、上司でも先祖でも、常識でも社会的な相場でもなんでもあり。
そうして、自信。
自信ってなんぞやっていったら、自分を信仰することで宗教と変わらない。それと、社会的な成功例、みたいな社会学が視点もミックスされている。
じゃあ、社会的な立ち位置とか成功例を取っ払ったときに、自分が自分であることを認めることができますかっていう話。
こういう風に区切ったら老若男女世界共通万人対等になる。
だからなんなのだっていう話だけど、僕はもともとそういう風にしか個人的に人を見ていない。
経験とか時系列の外にあるもの。
まとめ。
観察者を何処に設定するかで精神状態も能力値も変わる。
と思っているのだけど、おそらく共有できる人はあまりいない、はず。
短いけどおしまい。