観察眼
僕は基本的に○×がないことばかり考えているなぁと思ったけど、突き詰めていくと正誤で評価できる物事ってほとんどないっていう立ち位置だなと。自分の好き嫌いに関しては考えるまでもないし、政治とか科学とか学問とかは暫定の話だし、時系列の広がりを含めて考えると今っていう限定付きの○×。
ともあれ、個人に絞って考えると選択とか決断とかは即時的なものだから、○×で考えることも分かる。過去の自分の選択が◯ではなかったとか、これから◯の選択をしたいとか。でも、最終的には、自分の昔が自分の未来の選択を自動的に決めていることが多い。
自分が積み上げてきた時間っていうのは、否応なく未来を決める。修正したいなら、地道に過去を変えていく必要がある。そう、未来を変えるのではなくて、過去から流れてきていている歴史を微調整する。
過去を無いものにしてはいけない。
どれだけ恥ずかしかろうとも。僕は内的側面ではあまり恥ずかしいとかはないかな。過去の自分に教えを請うてみるみたいなこともなくはない。
そうして、考えずに決めたことの方が正解に調整されつつある。
さておき。
時間の話、というか、人の温もりとか好意をどこに感じるかっていうこと。
僕は人の好意には結構敏感。ここは歴史というかきっと普遍性。
我ながらあざといと思うのだけど、どうしようもない。ここは変えがたい本質と言って良いかも。好意風に見える媚とちゃんとした好意の見分け方、なんてほぼほぼないって思うだろうけど、凄く分かり易い指標がある。
時間を使うかどうか。
この時間をどう捉えるかだけど、ルーティーンの中の可処分時間をかけてくれたことって、あまり価値を感じない。こういうものが世界を作っているし、そういう交換関係を至上にするっていうのは分からんでもない。もちろん僕もこの恩恵には与っている。
でも、本当の関係は交換ではない、と思う。
期待ってきっと、これをしたからこれが返ってくるっていうことだと思うけど、僕は自分のものさしとしてはそういうものはない。相手のものさしに合わせると不具合は感じるけど、これは相手の土俵に合わせているだけ。
僕が思う本当の関係は、一方通行がたまたま一致した点でしかない。長いから安心だとか分かっているみたいな網の感覚は相手を殺す。殺し合い。
昔の人が手紙を大事にしていたのが実感されてきた。
僕は時間を食べている。
自分に対する心配とか好意っぽいものとか、言葉ではどうとでもなるし、言葉を発することには時間は使わない。
関係の本質は、自分に対してどれだけ時間を費やしているかっていうことを感じることだと思う
家族とか恋愛とかに使う時間じゃない。これって時間の使い方で言うと、仕事と同じ。
僕が見ているのって、社会的なその人ではなく、個人的なその人が自分に使ってくれた時間。
だから、ルーティーンから外れているんだろうなっていうの
が楽しいし、そこに好意を感じる。
だから、僕の指標で言うと、人の善し悪しって、時間の観念でしかない。
おしまい。