かいつまみ
なんだかバランスが悪くなったから、揺り戻すために決断を変更した。決断は義務ではないし、別に対価もない。そしたら弁当も作れたし、食欲もまとも。ユーリオンアイスっていうアニメが面白いってオタク気質の友達が去年くらいに飲んだ時に言っていて、今見ているのだけどなかなか面白い。
さておき。
昨日の社会学の話だと素朴な自分っていうのは何処までいっても存在しないのだけど、だいたいの人はきっと素朴な自分を前提にして生きている。想像でしかないから分らないのだけど。今日思っていたのは、恥の観念ってどこから来たのだろうっていうところ。
これは一種の社会的楔なのだろうか。なんせ旧約聖書くらいまで遡るし。これも社会の起こりとセットなのかな。
ともあれ。
今日は新しい言葉を収集した。自我には主我と他我があるとのこと。この話はちょっと後に置いておいて。
今日はタイピングが頭に追いつかない。
そうして、止まり木を主とすることは辞めたけど、今度は自分が鏡だなぁって思っていた。というか現在進行系。そしたら、今日社会学命題コレクション読んでいたら、人は他人を鏡としてしか自分を把握できないっていう命題が出てきた。ちょっと安心。
僕がこういうことを思ったのは、自分が他人の作った自分像の中でしか生きていないなって素朴な感覚があったからだけど、これも程度問題で誰しもが持っていると思う。不自由なのが仕事だとか。
鏡理論は個人的には当たり前だと思うのだけど、人はそのうち鏡を見ることをやめる。自我の起原自体が鏡だって、子育てすれば分かると思うのだけど(僕はしたことないけど)。
鏡は、もう少し進めていくとブーメランになる。
何か悪い所ばかりが目に入るっていうのは、その人の自我の反映でしかない。
世界は鏡。
そうそう、主我と客我。
客我が先。他人の期待に応えることで自我が芽生える。こういう自我で留まっている人は他人に期待するし、期待に応えなかったら敵対視する。
この期待の話は、全然関係ない他人に期待するとかしないとかっていうことになる。僕は個人的に期待っていう言葉は使わない。そうして欲しいのなら要望するし、要望で終わって、その先は相手任せ。
主我は、こういう客我を飲み込んで分析した後に生まれるもの(独解)。
期待に応えることに疑問に思って、じゃあ本当の自分はどこだろうって。
最後。
人が歴史に学ばないのは、個人の反映だと思う。
素朴に考えて、今の自分の方が過去の自分よりは優れているって思っている人が多数派だからこうなる。
今日は全然拾えなかったからここまで。
おしまい。