硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

パズル

帰ったら経済的書き物をしようと思ったのだけど、靴紐をほどこうとしゃがんだらドアの内側に付いている郵便受けに引っかかってスラックスが破けたから、縫い物になった。やれやれ。

 

食欲は相変わらず微妙なところ。お腹は通常どおり空いているのだけど、タイミングを逃すと要らなくなる。まぁアルコールは食欲増強みたいなところもあったから、抜けばこうなるのは分かっていた。増強っていうより、麻痺にも近い。とはいえ、麻痺したところであまり食べてはいなかったけど。

 

食欲が減退しているのは、その分頭を回していると言えなくもない。試験前の食べる時間を削っているときと感覚が似ている。思い悩んでいるとは別の次元のところ。スラックスが破れてしまったことにも特に落ち込んでいないし、転職活動も面白そうだなって思っているし。食よりも気にかけるものがあるということ。あれ、思い悩むと似ているような。そしてこれが日常になると栄養不足まっしぐら。

 

 

今日は、殺人罪未必の故意について考えていた。法学的見地からというより社会学的見地みたいなところ。犯罪ってなんだろうっていうと、法律を勉強したことがない人は悪いことって捉えるだろうけど、別に間違っていない。刑法的にいうと、構成要件に該当する違法で有責な行為っていう風に細分化されているけど、もっと広く考えると、その社会で悪いとされている行為のカタログってことになるのだろう。刑法が細分化するのは、実際に生身の人間を罰することになって、刑罰が最大の人権侵害だから正当化できるようになるべく緻密化したってことかな。あまり細かくはまだ考えたことがない。悪いとされていることっていう観念もなんだか怪しいけど、まぁ良いや。

 

新しい法律で犯罪が創られることもあるけれど、それにも一応理屈があって、選挙によって国会議員が選ばれることは、社会の承認があるって推定されている。推定っていうのは、憲法違反で後から無効になるっていうこともあるから。

 

そうして、犯罪には故意犯と過失犯(ほんとはもっといろいろ分け方がある)がある。ざっくり故意はわざとで過失は不注意だけど素朴な疑問として、なぜわざとの方が重いのかっていうところで思考していた。殺人罪の故意は殺意で、殺意を細かくすると、この行為をすれば相手は死ぬだろうって認識をしながら、それを意欲して行う心理状態と、まぁ死んでも良いやって認容して行ったっていう心理状態がある。そうして、未必の故意は後者のこと。

 

あぁ、やっとたどり着いた。

いや、わざとやったらより悪いだろうって直感できる人はなんとも思わないだろうし、実際は発言や行為の仕方みたいな積み重ねで、こういう状況で殺人行為を行ったのだから故意はあるだろうって形で認定されることが多いみたいで、純粋に心理状態を把握しているわけでもないけど、ひっかかるのは、この直感が何処から来たのかっていう所。

 

どこから来たって、もともとだろうって言われたらどうしようもないけど、こういう形で整ったのは人類全体の時系列でいうと割りと新しいような。ということで考えていたのだけど、どうやら、誰かの主観で犯罪を決めるのではなくて、理性で決めるべきだっていう、合理主義みたいな思想から来ているのかと。人は理性的な存在とされていて、合理的に物事を認識してそれに基づいて行動するのだっていう捉え方。

 

あと、憲法個人主義からきた自由主義の考え方もあるのかな。自由主義は国家が個人の事由を縛るのは最小限であるべきだっていう建前で、行動の結果だけ捉えて犯罪とするには不十分だろう、ではさらに何で縛るか、みたいな。

 

さらに、心神喪失とかの責任主義の話も出てくるけど、今日はもういいか。

ちなみに、別にこれは何かの学問の話ではない。僕の頭の中の話、念の為。

 

考えていくと、価値観はやっぱり外付けのものばかりなのだろうなって思う。

 

最後。

 

と思ったけど、もう時間切れだから、自己肯定の話は明日にしよう。

なんだか自覚的に解離性障害みたいなことになっているなっていう結論に至るのだけど、まぁいいや。

 

 

おしまい。