阻害と順当
今日は明日の昼ごはんを気にしなくても良い日だから、カレー鍋を作っている。出来上がるまでに昨日のご飯の残りとブロッコリースプラウトを前菜としている。ブロッコリースプラウトの値段は一定だけど、量としてはかなり割高。でも、値段の付け方のメカニズムを考えると、その値段に値する効用があるって農家が提示している訳だし、実際に買っている人で成り立っているってことだから、時々は買う。広告の品になったことがないっていうのでもなんとなく。
きゅうりは1本68円だった。
そう、料理というか食材の買い物は、食材に値段を付ける行為。
値段は付いているだろうと思うかもしれないけど、それを買うことが売買契約だし、その値段で納得したから買ったのだろうということになる。主観的に高かったとか安かったっていうのはあるとしても、買った事実が現実。
今日は値段の話か。
値段が俗っぽいなら、価値でも良いか。
まぁ、人間にも値段が付いているのは当たり前の世の中。労働が一番わかり易いけど、保険とかもろもろもそうだし。
一番は、相手に時間を使う価値があるかどうか。
ここは、すごく公私混同されている気がする。給料が発生しているときの関係と勤務外の関係。勤務外で勤務内の関係を強いるって普通におかしくない?
それをしてしまったらわやくちゃになるっていう推定があるけど、そこで切り分けられないなら仕事じゃなくない?
きっと、普通じゃない感覚だけど、これはTシャツの人から収集したもの。
もともとあったものだから吸収したのだろうと思う。
さておき。
何か刻印みたいに、首周りが狭い。
一旦収まったのだけど、またぶり返した。
閉塞感だと思っていたけど、確かに閉塞感ではある。
ただし、普通とちょっと違うのが、もっと自分が思ったことを発言しろよって訓示ぽく感じるところ。もう少し言うと、発言に他意がないのが本分なのだから、もっと他意がないように生きろよって体が言っている、ような気がする。
言いたいことを言わない方が上手く回るっていうのが一般社会なのだろうけど、僕の場合は、言いたいことを言ったほうが上手く回っていく。
とういうのも、他人に対してそれほど気にしていないから。
これは主語。述語ではやたらと気にするけど。
自分が当たり前にできることをできない人を下に見るっていうものさしは、権威を守るっていう意味ではありうる。僕も一昔前にはそう思っていた傾向はなくもないし、内的には厳密に他人を見る。
僕が人間関係を鏡だと思う所はここにあって、何を主語と述語とするか。
まぁ普通は自分像を固定してしまうのが大人だから。
鏡論が通じなくなると大人という説もある。
ともあれ。
最後。
は、明日かな。
おやすみなさい。