無駄論
昨日の日記はなんだかタイトル詐欺みたいになってしまったかもしれない。生活上の物理的な節約術かなって思って覗いた人も居るかも。しかし、精神生活の省エネのことを書いたつもりだから、個人的にはずれてはいないと思っている。論理学だって、どこまで思考が省エネできるかっていう機能がある、ような。
豆知識だけど、民事訴訟でもそういう省エネ的な考え方がある。でもこの話は長くなりそうだから省略。
さておき、でもないのだけど、今日の仕事で見る風景はなんとなく違った。たぶん、僕に振ることができる仕事が増えたっていうだけで、外界は変わらない。けど、無駄に緊張することが減った。自分の日記は精神世界の話だからあまり外界で現実化することはないのだけど、昨日の、自分から見た他人からの自己像に縛られるのは馬鹿らしいっていう自分の言葉が思いの外効いたのかもしれない。自分の基準で考える程、人は他人のことを気にしていない。ここを考えるのは下らない。自分がどうしたいか基準で良い。
昨日のキャパオーバーの自分のケアレスミスが返ってきたけど、最初は気にして、でも、これは注意しすぎて視野が狭まっているだけだろうって、開き直った。もう更新がないからっていう意味合いもある。このままいってやっぱり雇用したいって言われてもつっぱねようってくらいの気概になりつつある。
あとは、地味にタイピングのテーマも効いているのかも。
週替りなのだけど、今週は元気が出る言葉で、それをタイプしているだけで元気になっている、みたいな。だいたいてきとーな格言だなって思うけど、それでも言葉には力がある訳で。
でも、「回り道をした分、視野が拡がる」みたいなのは良いかな。
ということで、省エネと反対概念だけど、無駄の話。
植物がなぜ緑なのか
っていうところから始まる地球律の記事を見かけて、なるほどなって思った。
曰く、緑は太陽の光の中で一番強いだか、エネルギー効率が良いものらしい。
光の波長の知識はよく分からないけど、色って光の中で何を反射しているかなはず。
ということは、一番良い波長を排除しているのが植物。
で、光合成にも無駄がいっぱいあるっていうのは定説らしい。その無駄を効率化できるようにしたっていう研究がアメリカで結果がでたとかなんとか。それに対して著者は世界が終末にいよいよ向かっているなっていう感想を得たらしい。
伝聞のときはちゃんと伝聞だと表現する。
で、面白いのが光合成の無駄がどこにいっているのかっていう話。
どうやら、地中の細菌に流れているみたい。植物は、自分の効率を度外視して他に栄養を回しているみたい。
人の腸は第二の脳っていうくらいに作用するもので、腸の作用には細菌が不可欠だっていのと繋がっているのが著者の論理。これは面白い考え方だと思う。
だから、地球の自然ができた。
僕がただ単に大好きだからかは定かではないけど、自然に囲まれていると与えられている気がする。森林浴とかあるように、植物が無駄をしてエネルギーを発散してくれているから、人が快適に過ごせる。都会人は無機物か人工的自然物にしか囲まれていないからあまり分らないのだろうけど。まぁ、天然自然物に囲まれてしか無い人にも恩恵は分らないのだけど。
うちの母親なんかもその類。愛媛は大自然って感じでもないから、分らない人には分らないか。富士山とか屋久杉とかみたいな、どこに出しても自慢できる自然がない。
石鎚山とか四国カルストも日本規模で言うと全然大したことなくて、富士山とか飛騨山脈にはどうしようもない。ただ、世界規模で見たら日本の自然の規模も大したことがないってことになる。
だから、結局は、当人が何を自然とするかっていう話になる。
そもそも自然ってなんだろうっていうのは人それぞれ。
ままならないものとか、めんどくさいとか、神聖なものとか。
でも、ここで挙げた例を自然とするなら、これって人が人に対する評価と変わらない。
僕が見る自然は、気まぐれだけど与えてくれることの方が多い。
にわか雨がめんどくさいのは自然じゃなくて、仕事とか人間関係とかの人工物においてっていうだけ。濡れ鼠だと人と接するときに面倒っていう意味。自分だけだったら、かなり気持ち良い。
最後。
人間の活動圏と地球の体積みたいな話を違う人のブログで見た。
比率で言うと全然大したことはないみたい。上下20キロ圏内で收まるんだったかな。地球の体積は半径600キロだっけ。あやふや。そんな程度の人間が地球がどうこうを語るって
おこがましいよなぁ。
っていうところから、自分が自分を語ることもなんとなくおこがましい気がしないでもない。なんでって、人はどれだけ考えて分析しようが開拓しようが自分の無意識にすら辿りつけないから。
人が生きる上での効率もよく分からない。
おしまい。