省エネのためには
文章を書くことは癒しだという見解があるみたいだけど、僕の場合はそういうことではない。消化も昇華もない。ある意味反芻に近い。食料で考えるとなかなかグロテスクだけど、思考で考えるとどうなのだろう。どこまでいっても完結しない思考を持っていることは幸か不幸か。
さて。
とはいえ、食べ方が気になるなぁと思っていつも見かけたときに気になっていた。多分茹でるものだろうなとは思っていたけど、食べ方を調べたら案の定。高いから買わなかったけど。
何故気になるのかというと、フラクタル構造というか、人が食べるような形ではないところ。ナマコとか諸々もそう。はじめに食べた人の歴史が気になるし、むしろおそらく品種改良もさているみたいだし、よほど美味しいのだろうか。
論理の話。
田村書店さんでパッケージ買いをした、小説。
その可能性はすでに考えたっていうタイトルは気になっていたけど、表紙の絵にやたらと惹かれた。タイトルは良く分かっていない。
作者は東大出の人らしく、これを小説として良いのかっていう感じだけど、数理論理学とか、法律学なんかも出てくる。でも、学問の定義をそのまま言葉として使うのはどうなのだろう。
昇華しきれていないような。森博嗣さんの本はアカデミックな定義は出でこないけど、昇華されている。
という感じで。
論理学はあまり知らないけど、言葉を借りると、人の思考は最小限度でどういう記号があれば完結するのかってことらしい。
論理的思考の話は何回か書いた気がするけど、論理って言うのは所詮何かと何かを繋げる媒介でしかないから、実生活で役に立つかっていうと、なかなか難しいところではある。
実生活で必要なのは、繋げるところっていうより、何かそのものの方が多いだろうから。
タイピングのサイトの練習フレーズに、「毎日ひとつ新しいことをしよう」っていうのがあった。元気が出る言葉っていうテーマ。
ここの中核は「新しいこと」。
抽象化と具体化のバランスを取れるのはその人だけ。要は、新しいかどうかを選択するのは当人ということ。旅行が趣味で色んな所に行ったとしても、当人のフォルダが旅行だったら、それほど新しいものでもない、みたいな。
最後。
こう考えていくと、抽象的評価に対してあくせくするのは馬鹿らしいなって思う。
相手の中のじぶんは、抽象的に括られた他人の範疇であって、どう評価されようが、自分には届いていない。
突き詰めると、自分が外界にいちいちダメージを受けることもおかしいような気もする。
誰の為にストレスを受けているのだって。
この辺り自己像他己像で関係の話になってややこしくなるから今日は書ききれないけど、論理の話に戻すと、自分と他人を繋げる記号が関係なのだろうなって。
究極的には自分なんてものはないのだろうけど、意識的にどこにするかっていう決断は必要なのかもしれない。
おしまい。