硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

範疇

さて、あけましておめでとうございます。

今年は縁結び年だから、今年も繋がっていれば、よろしくどーぞ。

 

 

5年ぶりに帰省してきた。

帰ってみた田舎はやはりちっぽけだった。

 

 

 

 

なんてことは全くない。

関東に帰る叔父さんに乗せてもらって、早朝4時半に家を出たのだけど、星の数が全然違う。山だらけだから空は狭いのだけど人工物が全くないし空気が澄んでいるから。知っていたけどその記憶をもってしても感動。同じように都会に出た姉と妹はどうだったのだろう。

 

裏山に登りたかったのだけど、母親がドライブでハッスルして時間がなくなったから断念した。頂上からの景色好きだから残念。まぁ、我が実家からの景色も山の中腹みたいなものだけど。気候によっては家から下がちょうど雲海になったりする。

 

 

もう1つ。情報量が凄いのなんの。自分が知らないことが多すぎると自覚する。

郷土史とか風土史とか。まぁ、ここは良かった。知らないことを知らないままでスルーできるようになったら僕は僕でなくなる。

 

何から行こうか。

血筋から。

 

 

今回帰るときに、やはり帰りたくなくかったようで、高速バスを寝過ごした。

それを母親に報告したら、帰ってきたくないなら帰ってこなくて良いよって切れ気味に言われた。周りがどうこうって言っていたけど、いやいや、単に迎えに来る時間がズレるだけなのにここまで言われるかいなって。直観では周りへの体裁の方が大事なんだろうなって。

 

でも、おそらく少し違った。

何故なら、帰ったら、祖母だけじゃなくて従弟とか叔父さんとか結構な大人数だったから。えと、母方の祖母と、母と、母の弟(長男)とその娘、次男夫婦は居なかったけど、次男の息子(おそらく10年ぶりくらい)の5人か。おせちとか鍋をせずに待ってくれていて、しかも何故だか完全歓迎モード。

 

楽しく飲んだけど、何故自分がゲストなのかって思い至るとなかなか悲し面白げ。要は、僕は母親が嫁いだ父方の血筋のゲストでしかないから。まず、骨格が違う。母方の血筋は骨格がやたらとしっかりしているけど、父方の血筋を受け継いでいるから、やたらと体が薄い。直の父は骨格がっしり長身だったっけど、僕は隔世遺伝だったらしい。父方のお爺ちゃんは半端なくスリムだった。

 

 

そうして、思考が遺伝するかっていう話。

表層的な思考は環境で伝播すると思っている。から、あまり人は自分の本質の思考には届かない。

 

でも、生活を離れた思考だとどうだろうか。

生活とは=環境で、環境には家族も含まれる。うちの母親は環境から解放されて、ドライブと友達とのランチにあくせくしているみたい。

 

ただ、血筋かなって思ったのが、ドライブで山奥とか立地が悪い所に行っている道中で、ここで生活している人はどこに買い物に行くのだろって思いを馳せていたところ。僕の思考はここまで俗っぽくないけど、僕も基本的に電車とかバスとか旅行の道すがら、そこに住んでいる生活を想像するのが好き。人が歩いているの見たらほっこりする。

 

そう、だから微妙に違うのは確か。

多分、自分と地続きでなく見るのが母親。我が家を顧みたらそんなことは言えないはず。

 

そういえば、今回小学校の同級生が犬の散歩しているのを見かけた。

1人だったら挨拶くらいはしただろうけど、辞めといた。別にこの人の物語にもう一回現れてもしょうがないし。

 

個人的には、話を聞いてみたい人は地元にたくさんいるし、この人も1人だけど、その前の事務情報の交換が煩わしい。事務情報の交換はビジネス的には相手に気を使っているってことみたいだけど、僕が聞きたいところはそこにはない。

 

 

もう一個血筋の話でいうと、学者のおじさんが今日送ってくれる時に、星が奇麗だったって一言言ったところ。60歳くらいで、10何時間運転する前に空を見る余裕があるという凄さ。親子の会話を聞きながら帰っていたのだけど、やたと高度な植物学が展開されていた。

 

 

ともあれ、皆が父親を尊敬しているんだろうなって。

母親を尊敬する人は家庭を守る人かも知らんけど、父親を尊敬する人は、基本的に社会に肯定的。破天荒でグルメとか、大好きだろうって。

 

 

姉も妹も離れ気味だけど、血じゃなくて、何を大事にするか。

どちらかというと、離れてしまう傾向の方が縛られている。

 

そうして思うところは、僕はだいたいどこでもゲストなのだろうなっていうところ。

どういう所でも自分のことは語らない。タイマンだったら語れるって表していたど、きっと違う。

 

僕は人の本質を聞きたいだけで、自分の本質を語りたい訳ではない。

 

 

とりま、おしまい。