硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

細分化

 

 

炊飯器煮物デビューした。大根と豚肉とひらたけと生姜。

すごく柔らかくなる。そりゃあ40分位煮込むことになるから当然。でも味付けが難しい。もう少し保温時間が必要だった。帰ってすぐ作ればきっとちょうど良くなる。優しい味で十分美味しいし、冷めればちょうど良くなるけど、意図した味とはちょっと違ったというだけ。

 

あとは、なんとなく香の物が食べたくなったから白菜と人参の浅漬。

塩もみして、本当は糸昆布とかが欲しかったけど代用で花かつお。唐辛子の代用は豆板醤

。初日は人参がちょっと固いけど、明日か明後日くらいには馴染むはず。

 

美味しいご飯屋さんは香の物が美味しいというのを再現するのが最終的な意図。

 

料理で言ったら、ヤムイモタロイモでポテトサラダを作ってみるっていう空想があったけど、少し調べてみたら今や通販で手に入るらしい。確かインダス文明の主食だった気がするけど(記憶あやふや)、普通に食べられるみたいでちょっと意気消沈。そうして里芋にも近いらしい。ポテトサラダに仕上げるのは大変そう。

 

さておき。

 

昨日の話だけど、意味っていう表現は若干語弊があるかなと思った。

意味っていう言葉には色んな観念が一緒くたにされている。僕が言っていた意味は、意義っていう意味。ややこしいな。意味には、大義名分っていう文脈の外からくるものと、意図っていう文脈の内側からのものがある。他にはそもそものその言葉の意味を見ようとするときの意味とか。これは解釈の範疇だけど。

 

生きる意義はなくても良いけど、生きる意図はあっても良いだろうという話。

まぁ、意義と意図を分けられる人はそうそういないと思う。

 

僕は人間を観測する所では人の意図を見ている。

ここでは意図でしか生きていない。

 

ともあれ。

 

すごく嫌だなぁと思いながら三連休明けで出勤したら、思いの外上手く行った。

分析しきれていないから、再現性は全くない。ただ出勤中に嫌なことはやっとくほうが良いんだって言い聞かせていた向きはある。割と寝不足だったのだけど、何故か滞りなかった。

 

この現実を、自分が慣れたからだって結論付けるのが因果的な考え方。

個人的には全然慣れたと思っていない。というか、慣れてしまわないように意識している。何故なら、慣性の観念はもう自動制御になってしまって新しいことが吸収できないから。

 

1つびっくりしたのが、筋肉の人に三連休遊びましたか、何処行きました?

みたいなことを聞かれて、とっさに答えられなかったこと。一瞬記憶障害かなと思って、アルコール性と虫歯性で検索してみて、そうして思い返すと空港に行きました、その前に昼ごはんで鯱を分解した名前の店に行って丼頼んで、夜ご飯は沖縄料理で泡盛の古酒を飲みました、先週はジンギスカンパレスで焼き肉食べ放題を頂きましたくらいのことは思い出せたから、今の所大丈夫かなと思いつ。

 

個人的な自己省察(多分造語)として、バイオリズムでも場でも自分の思考とかものさしが変わるっていうのは知っている。日記書いている自分は誰と接していても絶対出てこないだろうし。

 

っていう文脈で言うと、とっさに出てこなかったのは、職場ではこの脳領域は必要ないだろうっていう設定で出勤しているから。ある意味では制限しているって言えなくもないけど、それを解放するとほんとに脳領域がキャパオーバーになるのじゃなかろうか。って思うけど、脳だけは上限知らず。

 

20冊弱を並行で読み進めてもちゃんと分けて処理してくれるし、共通項に響くし。

 

最後かな。

別に凄いと思われることを意図して何かをしていない。

だから、凄いと思われないように自分に制限をかけている節はある。現実化した結果っていう指標がないから、客観的にはなんの意味もないっていうのが良い。

 

何重の縛りをかけているのだっていう感じだけど。

 

 

最後の最後。

 

小説のものさしも結構時代遅れだなっていう発想。

だいたいは文庫本で読むのだけど、最新の文庫本でも2年越しとかになっているし、ハードカバーで読んでも、作家の着想からはブランクがある。

 

要は、どんな情報でもブランクと更新があるっていうことなのだけど通じるかしら。

 

最後の最後の最後。

 

自分が書いたっていう記憶は残っていないのだけど、昨日の日記の最後の自分は絵を描くように日記を描いているっていう表現は我ながらなるほどなって思った。絵だったら解釈は見た人それぞれだし、そういう文脈でしか描いてないなって。

 

 

おしまい。