硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

時間とは

帰りに歩道橋の上で5,6人がスマホで動画か画像を撮っていたからなんぞやと見たら、どうやらイルミネーションが変わったらしい。まだ銀杏の木は自前で綺麗な葉を付けているからあまり季節感はなかったけれど。

 

ご飯はなんとも薄味。砂糖が切れていたというのもあるけど。白だしだけの味付の二品と、鮭の水煮缶とキャベツと玉ねぎのホイルトースター焼き。味付けは味噌マヨ。

そうして中華一番を見ながら中華料理の収集をしている。

 

仕事はなんだかどうでも良くなってきた。

どうでも良いの対象は自分。というか、自分の観念。自分のものさしは役に立たないし、適度に手を抜くところを学んでいる。手を抜くっていうのは聞こえが悪いけど、時間を公正に配分するっていう感じ。聞いたらだいたい応えてくれるっていうのは、その分あくせくしていないっていうことなのだろうなって。余裕ができれば知識とか技術の練度も高められるという意味では、すごく良い職場。

 

さておき。

 

今日はずっと時間について考えていた。

というのも、時間は人間の主観でしかないっていう記事を見たから。

時間は流れていないかもしれないっていう趣旨。

 

発見ではなくて、僕の主観ではそういうことだろうのと感じていたことを他の人も考えていたのだっていう所で、もうちょっと突き詰めて考えてみようかなって。意図というより、思考の蓋が開いた。こういう時はもともとの記事を引用したほうが良いのだろうか。ほとんど離れているけど。

 

時間は人間の発明品。

起源は言葉と同じくらいだと思う。集団生活をする上では次元が立体では足りない。どのタイミングかっていうのを表す記号として時間が生まれた。と思う。概念の起源でいうと、音楽の方がもっと前なはず。

 

というところで、人は物事の変化を時間というもので細分化することを会得した。

考えると、既に4次元の世界で生きているなって思うのだけど、なんで三次元のされているのだろうって考えると、時間の観念は科学者でさえも考慮に値しないくらい自明なことだからだろうか。自然科学は全然収集していないからあまり分からないのだけど、日常で座標を設定する時って、場所(三次元)と時間がセットなのだけど、それはいかがか。

 

ここで物理学の話になるのだけど、ニュートンさんが物理学の法則を創ったときも、時間の概念は考慮の外だったような。素朴な感覚で考えるとその無意識下の時間の観念がエネルギーとセットだったのじゃなかろうかって。で、その試験管的な世界に疑義を呈したのがアインシュタインさんの時間は相対的なものだっていう考え方。そうして量子論になって時間は本当に存在するのかってなっている。

 

専門家じゃないって素晴らしい。

好き勝手考えられる。

 

 

そうして、学問ではない素朴な捉え方に戻る。

時間の観念は記憶と想像とセットになっているように思う。昨日はこうした、明日はこうするつもりみたいな風に脳を制限しているって言ったら言い過ぎかもしれないけど、少なくとも私的な捉え方に関しては、時間の観念は省いても大丈夫だろうなって思った。

 

プライベートの中でさらに分化させて捉えるっていうのは難しいかもしれない。

例えば、寿命っていう捉え方も公的なもの。自分の時間制限があるというのは自明なものと考えて、不可逆的に意識するけど、単に肉体の劣化とセットにしているだけ。肉体の劣化は時間の観念を省いてもそういうものだって捉えられる、いや、無理か。

 

なんだろうな、言葉で説明できない領域の話になってきている。

 

そういえば、一秒の単位が何を指標にしているか知っている人はどれくらい居るだろう。

なんとかっていう物質の原子が何万回くらい往復するのを単位にしているくらいしか知らない。ってなるとやっぱり恣意的じゃんって。

 

もう少し考えていくと、意識が一繋ぎにできる単位を区切らないと世界を観察できなかったから一日が生まれたっていうのはあると思う。寝ているときには時間は感覚できないけど、起きたときに何処に居るか分からなかったら困るし。ってことは、やっぱり時間は恣意的だってことになる。

 

命題が壮大過ぎてまとめきれない。

 

 

発想したのは、記憶力が時間を分断した概念だとしたらそこだけ一繋ぎにして今とすればいいとか(割とやっているような気がする)、占い師とか預言者が未来を見ることができるのは今の観念が広くて、それを時間に直したらここくらいって言っているのかとか、天才とされている人は時間の観念に縛られてない人かもなとか。マーフィーの法則もそう。

 

最後。

 

人と人の縁って、惑星の公転周期くらいの光速レベルでの変化の中での邂逅くらいに捉えていた。それくらい奇跡的なものだって思っていたけど、ここには時間の観念が前提とされているから、取っ払った後での捉え方は違ってくるだろうなぁという想像。運命論に近くなってきそうな。

 

しばらく時間に対しての思考は留まるだろうな。

 

おしまい。