硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

言葉の中身

 

 

急に随分冷えたなぁ。

 

 

ブロッコリーがやっと安くなった。やっぱり美味しい。メインは暖かいものと思って、マロニーちゃんとサバ缶とトマト缶としいたけとしめじの味噌煮。あとはサラダ。

 

 

 

さておき。

 

今日の精神は穏やか、というより凪いでいた。これはある種の平和だけど、なんだか箱の中のノミみたいな気分。平和とはなんぞやっていう捉え方にもよる。

 

思考に沈んでいるという表現っでも良いかも。

 

 

ともあれ。

この先書くのしんどい。

 

水を差す人っていうのは必要なのだろうけど、なんでこうも僕にとって嫌な表現方法を採るのか。気分を害するとかそんなレベルではなく、それをしてしまえば僕の中ではもう言葉が通じない人に認定されてしまうのに。

 

どういう表現がそうなるのか。

経験則が嫌な訳ではない。人は経験でしか学べないし価値は確かにある。ただ、この価値っていうのはあくまで個人レベルの話であって、そのまま相手に適用させられるものではない。

 

確かに、人の人生を抽象化して類型化して捉えて自分の人生になぞらえて、このときにはこうだっていう答えを相手にも主張するっていうのは、だいたいは外れないと思う。当たり判定6割ちょいというところ。つまり、だいたいの人には通じる用の言葉。

 

そういう主張の仕方が嫌だってっていうのはよくよく説明していたつもりだし、そうじゃないって思っているのだろうけど、多分こちらからの言い分は経験に裏付けされていなかなかったら聞き流されるのだろうなって認識する。実際そうなのだろう。

 

 

少し外れて。

 

僕はバベルの塔の話がかなり好き。

今日解釈を更新したのだけど、バベルの塔でいう1つの言語って協力して作業するときの言葉なのだろうなって。語彙っていうより記号の話。行動が前提にある言語ってかなり限定されているから、その限定された空間での疎通は楽だっていうこと。まだ知らないけど、プログラミング言語と近いものだったんじゃないかって思っている。

 

これを現実に引き直すと、日本語圏だとある程度の言語はだいたい通じる。けど、これは言葉の用法がなんとなく共通項になっているところだけ。

 

ここからやや細かくなってくるのだけど、言葉っていうのは全然客観的なものではない。

 

一応なんとなくの最低ルールみたいなものはある。構造的な意味では。

構造の使い方も含まれているけど、主には単語の意味の話。

 

この辺りはきっとみんな少なくとも無意識のレベルでは把握していると思うのだけど、要は、誰のための言葉なのかっていうこと。

 

個人間で交信するときに、外用の言葉を持ち出されるとげんなりするし、僕にはない観念だけど、誰かに行動させようっていう意図があるならその言語レベルは相手に合わさないといけないだろうとか。

 

たまたま自分の言語圏で通じたならそれはそれでいいし、だいたいは通じると思う。

この、だいたいは通じるっていう使い方があまり好きではない。

 

そういった意味で、僕はあまり言葉を信じていない。

言葉が人に影響を及ぼすのかっていう問だとイエス

 

ここから先はもっと錯綜する。

 

普通の観念で言うと、言葉っていうのは歴史の重みがあって初めて普遍化するってことになる。これは主観的な客観化。この時自分の言葉の説得力を持たせるためには、自分はこんな経験をしてきたっていう内容をセットにするしかない。

 

これはたしかにだいたいは通じる。

何回も言っているのがなんでかっていうと、こういう判断は法律学でもやっていることだから。そりゃあそうだ、法律を創ったのは人だから。

 

 

そうして翻って。

 

僕は自分の言葉に説得力なんてなくても良いから、特に歴史の重みは叙述しない。

人は仲間はずれにされると、暴力性だか攻撃性が活性化されるっていう傾向にあるらしいけど、僕はあえてエレルギー消費しても集団に入ろうとは思わない。

 

僕はそこまで強くない。

 

日本語的な意味の言葉と個人的な言葉の意味がどう違うのかって説明するのはかなり難しい。大体の人は併用しているし、併用している人に違いがあるのだって主張したいわけでもないから。

 

 

でも、僕の経験則だと、自分の話をそのまま聞いてくれるなっていう人に対しては饒舌になる。ただ話している枠だと相手の語彙に合わせるのだけど、これは解放してない。どれだけ舌が回っていたとしても、それは相手用のもの。自分のことなんて全然語っていない。

 

他人のことをどうでも良いと自覚している人のとの関わりを救済枠と呼んでいる。

どうでもいいっていうのは語弊があるけど、要は、他人が自分の思考回路とは違うところで生きていて、それを受容できるという精神性。

 

 

 

 

急に随分冷えたなぁ。

 

 

ブロッコリーがやっと安くなった。やっぱり美味しい。メインは暖かいものと思って、マロニーちゃんとサバ缶とトマト缶としいたけとしめじの味噌煮。あとはサラダ。

 

 

 

さておき。

 

今日の精神は穏やか、というより凪いでいた。これはある種の平和だけど、なんだか箱の中のノミみたいな気分。平和とはなんぞやっていう捉え方にもよる。

 

思考に沈んでいるという表現っでも良いかも。

 

 

ともあれ。

この先書くのしんどい。

 

水を差す人っていうのは必要なのだろうけど、なんでこうも僕にとって嫌な表現方法を採るのか。気分を害するとかそんなレベルではなく、それをしてしまえば僕の中ではもう言葉が通じない人に認定されてしまうのに。

 

どういう表現がそうなるのか。

経験則が嫌な訳ではない。人は経験でしか学べないし価値は確かにある。ただ、この価値っていうのはあくまで個人レベルの話であって、そのまま相手に適用させられるものではない。

 

確かに、人の人生を抽象化して類型化して捉えて自分の人生になぞらえて、このときにはこうだっていう答えを相手にも主張するっていうのは、だいたいは外れないと思う。当たり判定6割ちょいというところ。つまり、だいたいの人には通じる用の言葉。

 

そういう主張の仕方が嫌だってっていうのはよくよく説明していたつもりだし、そうじゃないって思っているのだろうけど、多分こちらからの言い分は経験に裏付けされていなかなかったら聞き流されるのだろうなって認識する。実際そうなのだろう。

 

 

少し外れて。

 

僕はバベルの塔の話がかなり好き。

今日解釈を更新したのだけど、バベルの塔でいう1つの言語って協力して作業するときの言葉なのだろうなって。語彙っていうより記号の話。行動が前提にある言語ってかなり限定されているから、その限定された空間での疎通は楽だっていうこと。まだ知らないけど、プログラミング言語と近いものだったんじゃないかって思っている。

 

これを現実に引き直すと、日本語圏だとある程度の言語はだいたい通じる。けど、これは言葉の用法がなんとなく共通項になっているところだけ。

 

ここからやや細かくなってくるのだけど、言葉っていうのは全然客観的なものではない。

 

一応なんとなくの最低ルールみたいなものはある。構造的な意味では。

構造の使い方も含まれているけど、主には単語の意味の話。

 

この辺りはきっとみんな少なくとも無意識のレベルでは把握していると思うのだけど、要は、誰のための言葉なのかっていうこと。

 

個人間で交信するときに、外用の言葉を持ち出されるとげんなりするし、僕にはない観念だけど、誰かに行動させようっていう意図があるならその言語レベルは相手に合わさないといけないだろうとか。

 

たまたま自分の言語圏で通じたならそれはそれでいいし、だいたいは通じると思う。

この、だいたいは通じるっていう使い方があまり好きではない。

 

そういった意味で、僕はあまり言葉を信じていない。

言葉が人に影響を及ぼすのかっていう問だとイエス

 

ここから先はもっと錯綜する。

 

普通の観念で言うと、言葉っていうのは歴史の重みがあって初めて普遍化するってことになる。これは主観的な客観化。この時自分の言葉の説得力を持たせるためには、自分はこんな経験をしてきたっていう内容をセットにするしかない。

 

これはたしかにだいたいは通じる。

何回も言っているのがなんでかっていうと、こういう判断は法律学でもやっていることだから。そりゃあそうだ、法律を創ったのは人だから。

 

 

そうして翻って。

 

僕は自分の言葉に説得力なんてなくても良いから、特に歴史の重みは叙述しない。

人は仲間はずれにされると、暴力性だか攻撃性が活性化されるっていう傾向にあるらしいけど、僕はあえてエレルギー消費しても集団に入ろうとは思わない。

 

僕はそこまで強くない。

 

日本語的な意味の言葉と個人的な言葉の意味がどう違うのかって説明するのはかなり難しい。大体の人は併用しているし、併用している人に違いがあるのだって主張したいわけでもないから。

 

 

でも、僕の経験則だと、自分の話をそのまま聞いてくれるなっていう人に対しては饒舌になる。ただ話している枠だと相手の語彙に合わせるのだけど、これは解放してない。どれだけ舌が回っていたとしても、それは相手用のもの。自分のことなんて全然語っていない。

 

他人のことをどうでも良いと自覚している人のとの関わりを救済枠と呼んでいる。

どうでもいいっていうのは語弊があるけど、要は、他人が自分の思考回路とは違うところで生きていて、それを受容できるという精神性。

 

 

というわけで、おしまい。

というわけで、おしまい。