主観とは
豚肉と大根とごぼうの炒め煮と、厚揚げとえのきに長ネギ千切りと味噌マヨのソースをかけてトースターで焼いたもの。卵焼きも作ったけど、昨日の主菜がやたらと残っているから半分弁当で半分朝食。
食べ物は栄養補給で、食欲を満たすという意味では楽しい時間だろうけど、僕の場合は作る工程とか時短とか味で楽しんでいる。大体毎日30分弱くらいしか調理時間取ってないし。
楽しいとはなんだろう。
さておき。
なんとなく調子は良くなっている。風邪が治るにつれて一緒に精神的なヘドロみたいなものも出ていっている感じ。鼻水も咳も鬱陶しいけど、この鬱陶しさはこれだけ悪いものを溜め込んでいたのだなと捉えている。風邪が悪いものではないと思っているのはこういうところ。
ちょっと近いと勝手に思っているのが、青少年への性に関する規制という名の抑えつけ。無菌状態で過ごしてきて一気に解放されても、自分の扱いに困るところ。僕の時代はそこまで抑圧はなかったし、今も規制はされているだろうけど、スマホに規制が追いついていないからガバガバなはず。
自然に出てくるものを抑えつけるっていう意味では、風邪を引いた時に解熱剤とか鎮痛剤でごまかすのも、自分が自分を抑えつけているっていう意味。薬はたしかに対処療法になるけど、常用になると、自分への感度が鈍る気がする。まぁ、煩わしいものはてっとり早く取り除きたくて、取り除ける手段があるなら使うっていうものさしも分からなくはない。
そういえば。
仕事でも無駄な萎縮が取れてきた。
ミスを指摘されても、別に中身には影響しない。慣れてきたっていうのともちと違う。自分のペースに巻き込めば自衛できるっていう昨日の発見が現実化しつつあるだけ。
主観って、自分が捉えるものっていう観念なのかもしれないけど、僕の解釈だと違う。
主観は能動的に動く現象であって、自分がどう思っているかみたいな内的な所とはあまり関係がない。受動的に物事を把握しているだけでは主観じゃなくて精神世界の話。
主観の概念は、他人に対してマウントを取ることとあまり違いがない気がする。
濃度が違うだけ。決めつけてしまうと、相手に抑え付けられているっていう感覚があろうがなかろうが、マウント。なんだかややこしいな。要は、主観とは、誰か何かに働きかける動作そのものということ。思想とか思考は客観の範疇になる。
社会学の学説では、主観とは外に従属しているっていう話もある。
誰かに監視されているっていう枠内での自由が主観だっていうことだと思う。こんなの今の日本人だったら少し内省してみれば当たり前かと、だけど、時代背景が全然違うところでは発見だった。
現代だったら、監視者は社会とか権威じゃなくて客観的な目線の自分として欲しいところ。
そうして。
感度が鈍くなったのかどうかは怪しいところ。
弱っている人が好きだって言ったけど、何が良いかっていうと、感度が鋭いから。皮膚が乾燥していたらすぐ粉をふくみたいなことなのかなと思わなくもないけど、交信率が上がるというか。
交信率が上がるっていうのはデメリットもある。相手のメッセージに対して一喜一憂してしまう所。人のバイオリズムとか感情の起伏での発信をその人そのものと捉えてしまう。普通はそんなことしないのだろうけど、僕は結構やる。というかやっていた。
今思っている所では、自分のことは分からなくても良いんじゃなかろうかっていう仮説。
この話にも続きがありそうだけど、そろそろ時間も押してきたから、最後。
考えたって何も変わらないって昨日書いたことについての注釈。
これは、考えるっていう一般的な観念が何かエネルギーを消費する労働とか運動みたいなことに近いって言うならということ。賃金とか筋肉みたいな形ですぐ返ってくるっていう思惑なら変わらない。
そうじゃなくて、自然と考え続けられるなら何かは変わる。
でも、こういう意味で考えることができる人って時々しか居ない。何かの為にっていう前置きがない、ただ考え続けてしまえる人。
基本的にはこの考えるっていうのは、堂々巡りになる。
でも、人自体が物理的に留まっていないから、堂々巡りも巡礼していけば変化がある。
あくまで個人的な体験だけど、今の自分の思考は次の段階に来たのかなと感じている。
自分なんてなくても良いっていうのもそう。自分とはこういう人物だって自己認識している時点で自分ではない。この発想はなかなか楽しい所に至りそう。
発想が錯綜しているからこの辺にしとこうか。
続きは明日僕が存在していれば。
おしまい。