硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

脱皮

 

 

ニラ玉、厚揚げひじき切り干し大根人参の煮物、もやしピーマントマト缶豚肉の炒め煮。全部にタンパク質が含まれているというはなかなか素晴らしい。朝はトマト缶とキャベツの卵とじ丼とニラとえのきの味噌汁、昼はとろろオクラ納豆月見そば。

 

肉を食べるのが禁忌だっていう宗教もたくさんあるし、個人的にベジタリアンをやっている人もたくさん居る。でも魚は大丈夫だけど鯨は駄目だとかもある。こういうのは命の定義っていうより、気分の問題だと思う。自分たちに近いものほど摂取するが生理的にきついというだけ。もともと家畜を食べるのは特別だったっていうのもあったのかもだけど。

 

何が言いたいかというと、命を摂取するとか言っても想像しない方が美味しく食べられるということ。植物に心はあるのかっていうのもよく分からなくなってくる話だけど僕はあると思っている派。心とはなんぞやっていうのもよく分からないけど、なんとなく考えていることはある。

 

人は情報の集まりだっていつか書いたけど、厳密には少し違う。人の精神そのものは情報ではないけど、他人から観測できるのは情報でしかないというだけ。人は死んだ時に情報になるってどこかで見たけど、わからなくもない。

 

という感じで、摂取っていうことを考えると、物理的な意味は言うまでもなく対象を破壊して自分に組み込む行為だけど、精神的な所で言うと人が人を食べるっていう行為も日常的に行われているような。

 

さておき。

 

今日は本の話。

 

図書館というのは良い施設。若干古いし数も限られているし館長の思想もあって偏っているけど、それはそれで味があるというもの。でも、借りられることより在ることに意味があるから。昨日行ってきたのだけど日記には書ききれなかった。

 

本を読むという行為も食べることと似ている。

何を食べているのかっていうのは難しいところだけど、言葉という情報ではなくて、言葉の外にあるエネルギーという気がする。そのエネルギーでわかりやすいのは費やした時間かなって。

 

今回借りてきたのは5冊。

森見登美彦の美女と竹林、森博嗣の未知の道、民事執行保全法の本、ウィトゲンシュタインの数学の基礎編、ほんで、京極夏彦姑獲鳥の夏

 

京極さん初だったのだけど、前置きが面白かった。

心理学とか量子力学とかもそうだし、世界は5分前にできたのかもしれない説っていう哲学の話とかもでてきたし。

 

並行して、家にある本も読み返している。

昨日は5時に目が覚めたから大崎善生パイロットフィッシュを一息で読んだ。人は出会った人とは離れられないっていうのはそうだよなと。表面上忘れたとしても、勝手に想起されるっていう時もあるし、両者が生きている限り再開する可能性は0ではない。

 

あとは伊坂幸太郎も熱い。

オーデュボンの祈りの祈りは最後の方目から分泌物が出たし、今はモダンタイムズの下。

 

未知の道で、継続が一番大変で価値があるものだっていう下りがあるのだけど、これでいうと本を読むことに対してエネルギーはあまり使わなくなったなって。もっと分かりやすいのは料理か。もうちょっと時代が進んでいて科学的に合成した食品+VRみたいになっていたらこんなことはしなかっただろうけど少なくとも何もない日は確実に自炊している。義務でもなんでもなく。必要に迫られた貧乏飯っていうのもやったことあるけど、これは継続にはカウントされない気がする。

 

つまり義務的じゃなくて意志的にするから継続に意味がある。

 

 

そうして最後。

 

人は基本的に自分のことが一番大事だから、逆から見ると、相手が自分のことを気にしているって考えるのがおこがましい。そりゃあその情報は内側の話だから当人にとっては大事だろうけど。

 

そんで、外界に対して鳥肌が立つみたいな感動を感じるようになってきたのだけど、これってまだ経験則の範疇でしかない。自分が変わることでしか世界は変わらないっていう観念は既知のもの。この先は未知だから分からないけど、想像するに他人に共感させるところなのかなって思っている。全くやろうと思わなかったことだし。

 

 

おしまい。