全体の中心としての「自己」というよく分からないもの
ほうれん草が久々に安かった。何ヶ月振りだろう。職場の人の雑談で話題になっていたサバ缶とうちにある大根とで炒めた。サバ缶の骨の食感が駄目だとか、匂いがどうとかダメ出しをしていたみたいだけど、調理法によるのではなかろうかと思っている。
もう一つ珍しく安かったブロッコリーは、ささみとからしマヨこしょうであえてみた。
ささみは茹でて、ブロッコリーは固茹でくらいにレンチンで。
ご飯雑談には加わろうかとうずうずするけど、どこどこの外食とか製品情報になってくると疎さしかないなから、まだ入っていない。お金をかけて良いものを食べるみたいな欲望はあまりない。美味しいものを食べて、結果的に高かったっていうのOK。同じようで全然違う。
さておき。
調子は良い。別に能力が飛躍的に向上した訳ではないけど、主観ではふてぶてしくなっている。自分の衝動に任せて色々聞くし、色々やる。邪魔するではないかっていう習慣的な反射より衝動を優先している。まだ全部は出し切れていない。
そうして、想像だけど、客観的には柔らかくなってきたなって見えているはず。
こういうとき、抑圧固定観念だから、こんなに楽しんで良いのかなって居心地が悪くなるのが今までだった。自分にはこんな悪いところがある、だから楽しんではいけないっていう無駄な縛りプレイ。
こういう観念がなくなりつつあるのは、自己評価が上がったとか、相対評価で自分の方がマシだろうって観測したからでもない。こういう捉え方ができるならとっくにやっていた。そうじゃなくて、単に時間の無駄だと決めたから。誰が決めたかは知らないけど。
何に時間をかけるのかっていうのは、今のところ人にとっては絶対的な指標になる。
寿命が伸びれば間延びするかもしれないけど、何かをするにしろ考えるにも、物理的な時間は必須。
というのを基礎として。
日記的日記。
今日は帰りに本屋に寄った。書籍類には日々囲まれているのだけど、入った瞬間唾液が出た。
本屋に入って食欲が反応しそうな人は、思い当たる限り一人しかない。僕も後天的に共感覚になりつつあるらしい。共感覚っていうのは視覚に味を感じるとか、言葉に色がつくとか五官のいくつかが混線すること。
そこで思ったことが今日の本題。
喜怒哀楽っていう言葉がある。
普通は言葉で表して初めて自他にこの感情が起こったのだってすると思う。
リアルタイムで感情を言葉で表現することが感情だというような観念。
っていう意味では、僕は感情がすこぶる薄いと思う。
これを従来では自分は感情の起伏があまりないって評していた。
でも、厳密に考えていくとそうではなかろうっていうのが今。
感情表現の言葉って二次情報でしかない。僕の観念では本当に喜怒哀楽があるときには言語表現できないはずって思う。自分は今喜んでるわーとか怒っているわーとか観察している場合ではない。ということは、言葉で感情を表現するとき、その感情は当人の事後評価でしかない。鮮度がない。
んで、僕は自分のことは分析するけど事後評価はあまりしない。
感情の話になると言葉に窮する。何が好きかっていう単純な話題だってそう。事後評価で捉えるなら、好きな物事がありすぎるってことがある。
で、感情表現の言葉が人間関係において頼りにならないって考えていくと、何が指標になってくるかっていうと、人生の残り時間というものさし。一般的に言うと制限時間が曖昧に捉えられてそうだから、自分に時間をかけてくれたことの意味も曖昧なのだろう。
僕は自分の感情を言葉で表現しないけど、可処分残り時間に対しては厳密だから、相手に時間を費やしたことが好感の指標なのだと捉えている。単にスタンプを押すとか短文とかでも、その時間でできることはいっぱいある中で、それを主観が選んだっていう意味で。
この指標で考えていくと、仕事時間だけで親切な人とか仕事外時間でも仕事を持ち出してくるズレが鮮明になる。そういう枠が取っ払われたらどうなるだろうって。
要は、人は他人と関わるには可処分時間を費やすしかない訳で、だいたいは何かのついでってことになる。仕事はもちろん、趣味での関わりもそう。
僕は言葉も好きだけど、言語外表現も好き。
時間の価値も相対的だけど、あえて自分に時間を使ってくれる人には敬意を払う。
時間イコールエネルギー。
読者はどんどん減っているみたいだけど、別にどうでも良い。
別に誰かに心地よいことを書こうと思っていないし。
ただ、感情を決めつけられることには反発する。
好きじゃないでしょう、感情の起伏がないでしょうって言われても、それは相手の評価の話であって、そう言われたらそうなのかもなってことしか言えない。違う訳ではないから。
最後。
感情を言葉で伝達するって、面接みたいに感じる。
おしまい。