石橋をなんとかして渡る
重ねれば重ねる程変態か変人だから、そろそろ止めておこう。
まぁ実際そうなのだからしょうがないと言えばしょうがない。
さておき。
仕事は結構やらかした。
分析するに、切り替えが上手くいってなかったとか、それをする時に他のことに気が向いていた(もちろん仕事上)とかがある。普通はやらないミス。次に同じことをしないような対策としては、大事じゃないことは気にしないっていうこと。大事さの度合いっていうのも慣れないと分からないっていうのはもちろんある。経験積めば無意識的に自動処理できるようになるだろうって。
でも、考えることはできる。あれとあれは等価じゃないとか、この瞬間はこれだけを優先するとか。おそらくそういうことを言語化してくれているはず。自分そのものを疑うところから入る。心配はいくらしても足りない。
これは視点によっては悲観的に見えるだろうけど、たまたま今日読んでいた本でそういう話があった。失敗するかもしれないって前もって予測することは、ネガティブ精神とは違うって。失敗するかもしれないからやめるならそうかもしれないし、どうせ失敗するようなやつなのだって自己評価して対策を立てないならまさにそうだけど、悲観的な予測を立てることは、悲観的な自己評価には繋がらない。
これを書いている人は、森博嗣さんなのだけど、この人の見解は面白いものが多い。
ちょっと置いておこう。
ともあれ。
今日は帰りにネクタイを三本買ってきた。
なんとなくグーグル先生を参照しつつ、かなり直感で選んだのだけど、今までの自分が選ぶ色合いではなかった。目立たないようにっていうてきとーな選び方から、自分に合う色っていうのにシフトした感じ。とはいえ、自分の客観的造形を観察するに、この視点で見ると選択肢がやたらと広がってしまう。これを絞るためには、その中でも好きな色っていう縛りが必要。
自分の好きな色ってなんだろうって思うと、気分によりけりかなっていう気がする。
ってな感じで、プライベートの服選びもきっと変わってくる。
この感覚は自分を大事にするみたいな観念からは生まれなかったもの。そうじゃなくて、他人は他人のことには別に注視していないっていう観念。であればその範囲で好きにすれば良いだろうっていう意味で広がるだけ。普通は逆なのだろうな。
そうそう、森さんの話に戻ってくるのだけど。
理屈と思想と努力。
努力は簡単だって言っている。労力はかかるかもしれないけど、自分が設定した結果に対して、積み上げるだけとのこと。努力がしんどいものだって思うのは、結果に対して疑っているからだって。
僕はあまりこういう観念はないから分からないのだけど。
だから、人生あまりうまくいかなかったっていう面は往々にしてある。何かのために本を読んでいるのかっていうとそんなことはないし、局所的な面白さだけで生きているかっていうとそうでもない。
んで、自分が設定する自分の行動指針を理屈というとのこと。
ものさしとか価値観でも良いだろうけど、要は自分なりの理屈を構築できることが人間の能力だけど、この理屈は他人に適用できるものだと思ってはいけないとか。
思想はちょっと色合いが違って、自分の価値観から離れて考察することっていう定義。
最後。
自分はどうか。
たしかに行動指針の設定っていうのは大事。自分を自分の理想に向けてコントロールする刷り込みっていう方が一般的な気がする。そのためにどうしているのかっていうと、ご褒美
はあげない、自分に任せる、で僕の場合は大丈夫。有能だから(自我自賛)。
そもそも自分の理想みたいな観念がないっていうのが適切な表現なのだけど。
僕は自分なりの理屈も持っている。
ただこの理屈って、何を決断しようがどうでも良いっていうちゃらんぽらんだから困る。
考えるけど、考えた後の行動はその瞬間の自分に任せるっていう精神。
こんだけ屁理屈文章書いているのに、行動指針が直感だというアンバランス。
思想もある。
けど、それを現実化してみるっていう精神もあるから、あまり当てはまっていない。
ヤムイモタロイモを食べたいっていう思想もそのうち現実化させるはずと思っている。
あと、ここでの僕は饒舌だけど、現実的な関わりだとかなりおとなしく過ごしている。
のはなんでかって言ったら、僕がコミュ障だっていうことではなくて、大体の人は自分の話を聞いて欲しい人達だから。片手間で聞かれるならカロリー消費したくない。別に聞いて欲しい訳でもないし。
あぁ、もう一個指針あったわ。
省エネ生活。
おしまい。