硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

フラフラ風邪まかせ

空いたのって昨日だけだっけ?

 

昨日は風邪で仕事も休んだし、日記も休んだ。ご飯も色々食べたなぁ。お母さん食堂(お父さんスイッチと語感が似ている)の鍋焼きうどんとか、プリンとかヨーグルとか。だいたい風邪の時はちゃんと食欲がある。夜は自分で雑炊1合分をたっぷり食べた。今日は朝はおにぎりとビタミンウォーターで、昼はセブンイレブンの親子丼と豚汁とプリン。ここの親子丼はとじた上に半熟玉子乗っているし、プリンも含めて卵づくし。だったから、晩御飯は卵を抜きにして、豆乳胡麻味噌鍋にした。ベースのスープはコンソメ。トマト缶も加えようかと思ったけど、トマトは夏野菜で、夏野菜は確か体を冷やす作用があったなぁと。

 

どの野菜もだいたい年中無休になったことが、体のバランス崩す一員になっているのかなとは思わなくもない。

 

具材は、まぁいいか。里芋は解禁した。第一陣食べたけどまだ完成していなかったから、今弱火でコトコトやっているところ。汁は、これだけでスープで飲んで美味しい。

 

どうせならお弁当にしてしまおうと、おかずのだんの弁当箱にアルミホイル引いて詰めてみたのだけど、見栄えがすこぶる悪かった。アルミホイルで二重蓋になるからまぁ良いか。

 

さておき。

 

ちょうど風邪だから、風邪への考察でもしとこうかな。

体温計ないから自分の体温は体感でしかないのだけど、今日は一日熱かった。汗も滲んだし。ただ、気温自体も高かったような。そろそろ体温計買わないとは思うのだけど、別に僕は体温が高いことを風邪の証拠にしたい訳でもないって考えると、必需品だろうかって。

 

風邪とはそもそもなんだろう。

西洋医学的には風邪症候群っていう名称なんだっけか。そういう客観性の中に、発熱が何度以上っていうのがあるのかな。要は病気の一種。癌とか肺炎とか医療機関の処置が必要なものと同じ分類。僕の母親は養護教諭だったのだけど、7度5分以上みたいな学校を休める指標があった。

 

東洋医学では基病だったかな(漢字が違う気がする)。医学全然かじれてないからてきとーに言っている。

 

まぁ共通認識としては、蔑ろにすると処置が必要なことになるけど、安静にしていれば確実に治る病気か。

 

主観的に考えて不思議だなと思うのは、熱を基準にするのって、人の平熱が皆だいたい3分以内くらいに収まるっていうなら分かる。でも、平熱が5度7分くらいの人が7度2分になったことと、6度5分の人が7度6分になったときってどちらがしんどいだろうか。40度を越えてきたら生物的に皆よろしくないけど、その前の風邪の時に熱を基準にするのはなんとも曖昧な気がする。

 

学校を休む時なら、なんとなく統一的な基準した方が良いかなと思わなくもない。

他人の肉体的なしんどさなんて親子でも分からないし、あまりに毎回許可すると、そのうち味をしめるかもしれない。まぁ個別的に判断するしかない。

 

仕事を休む時はどうだろうって思うと、自己責任だから主観的に判断するしかない。

仕事の詰まり具合とか、行った所で仕事になるのかとか、別にフラフラで行っても仕事として成り立つくらいの仕事なのかとか。ちょっと調べてみたけど、罪悪感を解消するためなのか、客観的指標を基準とする判断が多かった。他人に迷惑をかけるからっていう基準で無理してこじらせても、他人は別にその後の私的な医療生活をフォーローしてはくれないのに。

 

 

そして、ごくごく主観的な風邪の捉え方。

心身がズレすぎた時の帳尻合わせ。調和でも浄化でもあまり変わらないけど、悪いものではない。今も絶賛頭の重みを感じるし、息も絶好調よりはし辛い。

 

他の人は知らないのだけど、何か蔑ろした、というより当たり前にしてきたものが復讐してくるという感覚。あぁちゃんと体があったんだぁみたいなところ。歌詞にもある月並みなものだけど、体はちゃんと意識的に動かすものなのだなぁと。同じく動かしているつもりでも全然遅くなったりする。

 

この文脈でのズレのツケは毎年年末年始の時にやってきていた。

でも、今回はちょっと違う。

 

 

風邪に特効薬ができないのは、原因と考えられるものが多すぎるから。

要因は免疫力の低下なのだろうけど、そもそも免疫力の観念がかなり漠然としている。幼児と老年は免疫力というより外界に対する抵抗力だろうし、免疫って突き詰めていけばその人そのものの外圧に対するメカニズムに他ならない。

 

 

で、僕はそろそろ引くだろうなって何個前か忘れたけど日記に書いていたっていうところが違う。来ないように注意したところで、忘れた頃にやってくるのが普通。

 

今回のバイキンが何処にあったかっていうと、自分の中の経験的外圧の捉え方。

なかなかいっぱいいっぱいになっていて、それが破裂したのが昨日。分かり易かったからすぐ休んだ。素朴な劣等感は成功体験が少ないということではなくて、自分のものさしがもともとズレているっていうのを認識できてきたからそれで良かった。問題は、素朴な罪悪感。

 

仕事を休む罪悪感は、学校を休む罪悪感と似ている。

そうして、その罪悪感が何処から来ているかっていうと、義務なのだっていう刷り込みにある。この義務っていうのは、別に何かが返ってくる訳ではない空気としての義務。

 

法律的に見ると、義務には権利がセットになっている。

これをこの2つの義務に直すと、教育を受ける義務を放棄しても学校での教育を受けられなくなるだけで、別に何も問題はないし、仕事を休むっていうのは労働契約上の労務提供義務を果たさないことで、その分の対価が得られなくなるだけで、当人と雇用主との中になしかないサバサバしたものでしかない。

 

これには罪悪感はなくていいはずなのだけど、そうじゃないのは協調というか同調っていう行動様式があるのだろうなと。で、この同調傾向は、仕事上で仕事以外のことも気にしないといけなくなるっていうところに至る。今日フラフラで行ったら、そういう傾向があまりなかった。ズカズカ聞けるし、電話もなんとでもなるし、なんとなく無駄な情報がカットされて、フラットになった。

 

これだけでは面白くないから、これを臨床心理学的に見たらどうだろう。

臨床心理学もその人を遡るけど、これはその人の現実的な不具合がどこから来たのかしか探らない。不具合が生じない部分にも抑圧はあるはずなのだけど、その抑圧はあくまで度外視して、その人が生きている世の中での現実になんとか収めるものではなかろうかって。

 

集合的無意識の中には、こういう俗っぽいものも含まれているかもしれない。

 

関係あるのかないのか、不思議な話。

職場の人がなくなって、お通夜とか葬式とかで今週末ごたごたするみたい。僕は新人でこの人に会ったこともないし、参列するのもおかしいだろうっていう認識で完全部外者なのだけど。

 

スケジュールの調整をしているときに、誰かが、連日行くのもしんどいでしょうみたいな発言をした。お葬式って行くだけでしんどいじゃないかって。

 

こういう儀式って誰のためのものなのだろうと素朴な疑問。

参列者がしんどいなら当然主催者だってしんどい。で、故人がそれを求めているかって言ったら、会ったこと無いけど、そんな人はいない。

 

実家は仏教だから、こういう文脈の説教を聞いたことがある。

故人に縁のある人が集まれる場だって言っていた。故人の話で盛り上がることが供養になるって。たしかに生きている人から見ればなんとなく分からないでもないけど、僕が故人だとしたら、そんなことで盛り上がれてもなんにも嬉しくはないし、自分が死んでまで自分の

ことでしんどい思いなんてしてほしくないわって。

 

っていう誰も救われない儀式が未だにあるのは、一種の刷り込み的罪悪感なのだろうなって。

 

こういう罪悪感はやっかいで、自分が刷り込まれていることに無自覚でも無意識下では発動する。表面から見えるその人がどれだけ堪えていなさそうに見えても、何処かに不具合が生じるだろうなって。

 

 

結論。

 

僕が風邪を引いたのは、僕の埃吸着無自覚の刷り込みのせい。

外界の現実を悪く捉える。悪く捉えるだけなら問題ないけど、自分の精神にとって影響させる意味でやるから。

 

よく昼休憩の時に頭を振るのだけど、変な考えを振り払うのに利く。

 

 

最後の最後。

 

今日ふと、人の可処分時間のことを考えていた。

 

人生80年と見たとして、その3分2くらいは仕事と睡眠として、残りの半分は食事とか洗濯とか日常のもろもろとして、この人生でも完全に自由にできる時間は二十年分しかないのかって。休日とか年末年始とか省いたすごくざっくりした計算だけど、冠婚葬祭含めればあまり外れていないと思う。

 

って考えると、一日4時間はかなり厳密に活動しなきゃならんなって。

僕は時間をかけたものに価値があるとは思わない。その時間をかけたものってだいたいは義務とか本能に従属しているから。

 

と、ここまで考えていくと、価値にすら意味がない。

 

 

ということでおしまい。