下位ルール
昨日の日記を自分で読み返してみたけどすごく抽象的。前編にも後編にも自分が人に好かれるみたいなことを書いていて、ぱっと見すごく自意識過剰。
何か具体例を、っていっても物証がないから証明はできない訳で。
ポイントがあるとすれば、興味と尊敬だと思うのだけど、多分に抽象的。例えば母親との話で言えば、自分が料理を覚えなければ料理に関して母親を掘り下げることはできなかったっだろうっていうのを、母親の凄さと認識するとか。職場で言えば、やろうと思えば小川糸さんの本を読んでいた人とかハヤカワ・ミステリを読んでいる人を掘り下げることができる、とか。
恋人さんが、職場の同学年の人は僕にほのかな好意を持っているかもしれないって言っていて、こういう直感は当たるとのことなのだけど、思い当たる節がない訳でもない。そうして、仮想としてこの関係が成就した後の流れっていうのも1つの世界線として想像できる。
僕の悪い癖なのだけど、想像できる関係はつまらないっていうものさしがあるから、無駄に興味を解放しない方が良いだろうなと思う。
好かれ過ぎないようにすることは、抑圧ではなくて制限。
んで、これは恋愛事情みたいな異性には留まらず、同性でもある。あだ名は筋肉の人にしておこう。この人はコンプレックスの塊だって評した思うけど、それを投げられるてっとり早い存在なのだろうなとは思う。近くなればなるほどダメージを受ける。別にこの人には興味も関心もないけど、職場で誰かと近くなったのを見せたら寄ってくるだろうなって。んで、立場的には優位であるっていうことを前提として接してくるはず。
好かれ過ぎないっていうのは好感を持たれたいっていう人からしたらよく分からない話だろうけど、他人を敵として見ているかどうかにあるのではなかろうか。本心では敵対しているのに、表面で取り繕って好意を持たれたいっていう浅はかさは相手に見られる。仕事だったら、仕事っていう大枠があるからなんとかなるだろうけど。
仕事上でしか関係が保てない。
この指標はもっと広く適用できる。同級生とか同郷とか、同じところで生きてきた共通認識を前提とした関係。
さておき。
物欲とはなにか。
金銭を消費して物質的な所有欲を満たすところが中核だと思う。つまり、自分の支配領域にあることを欲する。その物質を利用するっていう観念もあるだろうけどこれは周辺の概念。
僕が今一番欲しいものは、広辞苑、よりやや勝って英和辞典。
秋冬スーツとかネクタイとかも買わなきゃだけど、これは物欲じゃなくて、仕事の道具として買うべきものなだけ。
では、僕が英和辞典を所有したいのかっていうとそんなことは全く無い。物質的な英和辞典ではなくて、その中身を欲している。この知識欲はどう分類されるのだろう。これは電子辞書でも良いし、手段はどうでも良い。
抽象的な欲は、金銭には換算されない。
っていう意味で僕が他人に興味を持つとき、自分に対価があるだろうっていう前提がない。抽象的な興味。むしろ学問的な話をしてみたいとか。
変な話、文系最高峰の資格を持っている人すらそんな話はできそうにない。
なんでかっていうと、素朴な自分と不可分になっているから。
ここから潜ると、例えば結婚相手を欲することって、物欲の一種ではなかろうか。
っていう思考。他人は所有できないけど、縛ることはできる。
法律とはなんぞやっていうと、有形無形の縛り。
婚姻制度も変わってきているし、民法も変わったし、世の中が変わっているとは思う。
個人的には人権の観念も変わらないかなと思っている。
人権とはなんぞやっていう考え方って、未だに昔からの流れでしかない。
独裁政権とか、王権神授っていう国のための資源でしかなかった抽象的な人から脱却した個人にしようってなったけど、その先になろうかって。何かに根ざした物の見方じゃないところ。に至る土壌は精製されている気がする。
まぁ、義務教育のうちに法学教育できないのも分かる。後ろめたさがある、というか、あまり穴を知られたくないから。法律とは盲目的に従うものだって思ってくれた方が楽だし。
最後。
僕が人を捉えるときのやり方。
これは小説を読むときとか専門書を読む時でも良い、普遍的な視点。
テキストとして出てきたものがなぜ現実化したのかっていう、その人が表現した所からこぼれ落ちた所に焦点を当てる。もちろんテキスト通りに捉えるっていう次元もあるけど、言葉にできることって、その人が何処にでも適用できるだろうって加工したものだから。
文章では行間って呼ぶだろうし、日常では察するとかに還元される。
これは当人が人をどう捉えるかっていう所とも直結している。
自己認識が確定された人は、人に対して自分にとってどうかっていう視点でしか捉えられない。そういう人はどう考えたって、考えてない。
考えるといえば、面白いなっていうフレーズがあった。
考えることで主体が変化するっていうやつ。
思考の定義の話だけど、自分の枠内で考えることは単なる循環論法だと思う。
培った自分を変えることは一種の精神的自死。
でも、どうせ肉体的に時間制限があるのなら、精神的には死にまくって良いのじゃなかろうかって。
例えば興味を持ってしまった人に嫌われても良いし、失敗も楽しい。
ただ、人間関係に関しては、自分の為に消費しようってなった時には失敗する。
やべ。
時間オーバー。
シャツとネクタイはアイロン済みだから寝る時間は長いけど、日付跨いでしまったわー
おやすみ。