きのまま
どこまで書けるかわからないけど、後編。
自分が素朴な感覚で生きられるようになってきたっていう話だったけど、ここには注意事項がある。あまり他人に好かれないように制限しないといけない。
だいたいは、他人に好かれるために自分を制限しないといけないのだろうけど。
こういう観念から生まれたのが礼儀とか敬語だろうなと。乱暴な捉え方。
過大評価でもなんでもなく、人に好かれてしまう。
だから、制限は無駄に好かれないようにするっていうところに向かう。
これは造形が現代に合っている女性なら分かると思う。
あとは若い女性か。少し違うけど似た所はある。
僕のは引き寄せるっていうものではなくて、相手の精神世界を丸っきり肯定してしまうところ。相手は自分と合っている人だろうって錯覚する。
相手に伝播したい自分の精神性なんてないし、顕示欲っていう当たり前に在るものが無い。
こうして来たからこういうことになって結果を出したっていうのが手っ取り早い自信だろう。こういうことを自信にする人は、自分がたどってきたルートを自分のものとはしていない。だって、本当にそうだったら他人が辿れるとは思わない。
最後。
自分が会いたい人と、自分に会いたい人とどちらが多いだろう。
っていうところで一般的な人間関係は決まる。
ここにはどっちでもいいっていう観念はない。
対価性とはなんぞやっていうと、見返りを求める観念。
これが悪いとは思わない。制限すること近くなるっていう関係もなくはない。
ただ、三十年経てば関係が馴染むっていうことはおかしい。
こんだけ接している自分にすら馴染んでないのに、だったら他人と馴染めるのかって。
ただ、自分と馴染むよりは他人と馴染むほうが楽なのは確か。価値を肯定してくれるし受容されるから。
だいたいの人はそうなるのは分かっている。
僕は基本的に想像できることっておもしろくない。
自分の中間が気に食わないってところが中核。
それが現実化したとして、何が楽しいんだろう。
っていう感覚をもっている時点で、、伴侶欠格。
人にとっての利って何なのだろう。
自分の都合良くなるっていうストーリーは求めてない。
結語。
何処が譲れないかっていう調整。
これは汎化できそうな話
おしまい。