硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

人間関係(後

袋蒸し麺だかゆで麺を買ってきて、弁当にしてもくっつかない作り方を参考にして焼きそばを作った。たしかに冷めても全然べたべたしない。むしろこれは普通に作るときでも美味しくなるやつ。

 

作り方は、まず、麺を少しレンチンして温める。今日は1分半だったけど、レンジの出力と量によるはず。次に麺をざるに移して水で洗う。ここが一番重要っぽい。もともとほぐれている麺なら洗うだけでも効果ありそう。そして、十分に温めたフライパンにごま油を通常通り引いて、まずは麺だけ炒める。で、ボールに移す。その後肉と野菜にちゃんと火を通して、これもボールに入れる。味付けはボールの中で。今日は、顆粒中華だし、塩、ウスターソースオイスターソース。終了したら、なるべく広げて完全に冷やす。終わり。

 

初めて有用な情報を提供したかも知らないってくらい素晴らしい。ただ、洗う時間すら惜しいということもあるだろうし、料理に費やす時間と労力の価値っていうのは、人それぞれっっていうよりも、個人の中でもその日による。僕も休日のどうでもいいやってなったときは卵かけご飯で美味しいし。

 

という感じで、料理の説明ほど再現性がないものはない。

それは説明する側の当たり前がほとんど感覚的なところにあるっていう理由。何分煮るとか書いていても、その具体的なところは見ながら調整しているのだろうし。

 

ともあれ、明日米が届くっていう母親からの連絡があって、おそらく最長通話時間だったのではないかと思う。20分弱かな。で、料理の話もした。ちょうど愛媛県産の里芋を初めて買ってみたところだから、郷土料理について。芋炊きにすれば良いらしい。こういうのが、健全な引き継ぎかなと思う。もう母親の料理を引き継ぐのは三きょうだい(姉弟であって兄妹であるときなんて表記したら良いのだろう)で僕しかいない。ただ、どう意思で拒否したって承継されている部分はあるのだろうなと思う。

 

はい、料理の話おしまい。

 

 

そして、近況を聞いたら、どうやら介護の資格を取るつもりらしい。つもりっていうのは、しようと思っているみたいな漠然としたものではなくて、結構本格的にごりごり週2でやるところに入金済み。これも、通信教育みたいなもので一人勉強するのはできないけど、実際教えてもらいながらするのであればいけるだろうという自己分析を踏まえている。

 

これ聞いている時に思ったのが、この人のバイタリティ凄いなって。何かテレビの影響らしいけど、おそらくやり通すだろうし、この何かやってみようっていう観念。老後に何か活動するっていうのは良くある。ジムだったり、趣味を広げたり。でも、資格を取ってみるっていうのは、時間を過ごすことを越えて利用するっていうところまで行っている。

 

無条件に尊敬した。で、このバイタリティが遺伝されている訳かと。ずっと保守的な常識に囚われている人だと思っていたのだけど、役目から離れた後の方がこの人は凄い。田舎とはいえ、60越えてやったことないレストランでアルバイトしてみるとか。

 

で、さらに考えると、抑圧傾向も遺伝なのかなって。

これだけ新しいことに手を伸ばせる人が、田舎の良いところの長女で公務員になって、なおかつ母親の役割をこなすっていう抑圧はかなり重いものだったのだろうなと。その分やたらと辺りが強かった時期もある。

時代と場所が少しズレていたら、全然違った人になったと思う。でも、きっと自分が生きてきたことに対して不遇だとは思っていない。今楽しそうだもの。尊敬すべき前世代がこんなに近くに居た。今までは家族としての繋がりの中で母としての尊敬に留まっていた。

 

良い血を貰ったものだ。

厳密言えば、血筋っていうより、環境なのだけど、現代では意味合いはあまり変わらない。

 

 

そうそう、ここまでも全部人間関係の話なのだけど、昨日の続き。

料理は違うだろうって思った人が居るんだったら、自分が食べているご飯は誰が作っているのかを考えたら良い。

 

今日はなかなか快調だった。

使い切るほど神経を切り詰めていないっていう意味で。

 

仕事で言えば、かなり職場の人に対する発話数が増えた。そんで僕の失敗程度のものは想定内だから、何も影響されてなかった。むしろもっと聞けっていうスタンスなのだろうなって。

 

プライベートで言ったら、スーパーで買い物をしている時に前の人がEdyに入金するのを戸惑っている時に何の意図もなく説明に入ったところ。この言動の解釈として、早くしろよとか困っているから手助けしようみたいな自分の利益の動機は一切なかった。反射的なもの。

 

敵は何かっていう昨日の最初の所。

 

個人的な所でしかないのだけど、僕は精神世界で何か負い目とか抑圧を受けていることはない。僕そのもので外界に出ている部分でも、誰かに反感を買うことはない。

 

では、何が問題かっていうと、精神世界と現実を繋げる回路部分。

これは人間関係とほぼ一緒なのだけど、評価というか解釈のところ。ここには正解はないし、どうしたって良いのだけど、人と接するときに無駄に消費してしまう人はここの捉え方が当人に合っていない。わかりやすくすると、過剰な部分のストレス。

 

そんで、この部分をないものとした方が良いのではなかろうかと思っている。

もともと僕は自分が外界を吸収して現実化することを自分のことが気に入らないからっていう理由付けをしていた。このつなげ方だと、どうあっても負い目が生じる。この負い目が現象を阻害する訳で、じゃあ要らないなって。

 

ただ、赴くままで良い。

 

最後。

 

念のため。

赴くままが現行法に触れるような人は、ちゃんと抑圧したほうが良い。この抑圧は社会的に生きるための必須だから。