疑似日記
昨日の日記は最後の方がかなりざっくりしている。
精神的質量の概念は良く分かってないからともかくとしても、なんとも悲観的に生きているような印象。別にその印象のままでも良いといえば良いのだけど。
精神では空間は歪まないから、質量とはちょっと違うか。
ただ、類は友を呼ぶとか、精神的な段階によって人間関係が変わるということはたくさんあるから、重力はないけど引力はあるのかも。物質としては存在しないっていう意味ではSNSとも類似しているし、その人そのものとは直結していなくても、文章はその人の精神とは繋がっているのかもしれない。
ここで言うその人そのものっていうのは、精神も含まれているし肉体も含まれているけど、中核は現実で外から観察されるその人っていうこと。当人がどう自分を把握しているかっていうところとはあまり関係ない。
自分が外になったときに、この人本当はこう思っていたのだって知って認識を改めることがあるけど、それでその人そのものが変わる訳ではない。
僕が他人の文章を読むのは、相手そのものを知りたい訳ではなく、その人の精神世界が知りたいだけなのかもなと。逆から考えると、現実で興味が出た人が書いた文章を知りたいっていうところはここにある。もう一回反転して、文章が興味深い人だから現実を知りたいっていうことになるかっていうと、必ずしもそうはならない。
この前提で考えていくと、だいたいの人の文章はその人そのものと繋がっている。これはおそらく小説家とかの文章のプロも含めて。だから、その人が書いた言葉はその人そのものだってことになるのだろう。
こういう精神世界を守るっていう規律もある。憲法19条の思想良心の自由。
ただ、この規律だと、表現として世界に流通させてしまうことは現実化にあたることになる
から、言葉によって特定の誰かを傷つけてしまうことは守られる範疇にはならない。
表現の自由も流れとしては同じなのだけど、表現を情報として世界に流通させるかどうかっていうところに視点があるから若干違う。
文章とか言葉は好きだけど、人そのものが蠢く現実で対象を捉える拠り所は言葉ではない。
言葉は観念でしかなくて、現実なら現実化すること、つまり、行動の方に重きが置かれる。
言葉自体はいくらでも繕えるし、現実的世界で見ると当人が費やすものってほとんどないから。なんだっけ、有言実行っていう熟語があるのがその証左。
やる気とかの精神論みたいな話はきっとこの意味での「言」。
言葉に力があるのかっていうのも、精神世界にとってはある。それが現実化するかどうかはまた別のメカニズムなような気がするけど。
さておき。
悲観的に見えるだろうなっていう話。昨日の日記の注釈だけで終わりそう。
まず、結論の夢が偶発的な事象で退場するっていうやつ。
夢の意味の捉え方によりけりなはず。僕の中では夢は現実化するものではないっていう解釈。そのために行動を積み重ねるなら目的って言う。つまり、退場を願うだけでそのために積極的に行動することはないということ。日々を積み重ねるための指針とは全然関係ない。
もう1つが、人を損なうとか損なわれるという下り。
大筋は書いた通りで良いのだけど、何をもって損なわれるとするのか。
損なうっていうのは、何かの価値が奪われるっていうことだけど、価値っていうのも基本的には絶対的な基準はない。基本的には時間が一番分かりやすい。けども平均寿命っていう指標と照らし合わせると意味合いが変わってくるし。
僕は相手の時間を奪っていることに損なうって感じる節がある。そんなの相手の勝手なのにも関わらず。自分と関わる時間を他に使えばもっと有意義に時間を消費できるだろうって。僕そのものがそこまで考えているかっていうのは微妙なところ。現実でそこまで時間をつめつめにして生きている人は居ないだろうし。
これは反転して見ると、僕が割と時間をつめつめで生きているからということなのだろうなと。本を読む時間も自発的に枠を確保しないと恵まれたりしないし、料理とか日記とかも含めると、平日で他人に宛てる時間なんてほとんどない。
それだけ活動しているっていう向きもあるけど、それだけつめつめにしないと生きていられないっていう面もある。なにせ生まれた時から余生みたいなものだし。
もう寝るという説もある。
健康にとっては一番良いし。
ということで、続きは明日で。
おしまい。