硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

現実とはバーチャル

朝は温蕎麦、昼は塩焼きそば。蕎麦は小麦粉の割合が低いのか、なんだかもそもそした。ちゃんとしたそばは多分温蕎麦じゃなくてざるそばで素材そのものを味わった方が良い。夜はなんだか温かいものが食べたかったから、厚揚げと鶏胸肉としめじしいたけの煮物。あとは、卵焼きも面白みがないから、カットトマトの水分をある程度飛ばした後に、オリーブオイル砂糖塩を入れた卵とスクランブルエッグと、小松菜とひじきともやしのごま油、ごま、のレンチン和え。

 

母親に救援物資の要請をかけたら、おばあちちゃんちで大根ができているらしい。大根来たらおでんにしよう。あと少しは遊べって言われた。見ているのかいな。たしかに思考は遊ばせているけど誰かとは遊んでないなぁ。

 

食といえば、いつも読んでいる世界の終焉に関するブログで、野菜を食べるのは良くないみたいな記事があった。厳密には、カット野菜を水道水で洗うと毒性が云々みたいな話。クロロホルムとかを含めた物質、なんていうのか忘れた。食の情報で僕が見るところは危機感を煽って何かに誘導する情報はちょっと怪しいけど、ただ危険性についてだけ淡々と述べるのは、そういう研究結果もあるのだろうなみたいなところ。

 

水に関しても、水道水が危険だとか、ミネラルウォーターも怪しいとかいっぱいある。

 

要は、よく分からないっていうこと。

多分お婆ちゃんが作った大根だって、雑菌で言ったら市販のよりはるかに多いはずで。

安全とか安心の定義を何処に置くか。

 

 

さておき。

 

今日の活動率は5割くらい。

本当はもう少し処理したいこともあったのだけど、休日は時間が間延びするからこんなものかなっていう気もする。予定通り稼働できたらそれはもうプライベートではない。

 

何処から行こうかな。

 

あぁ、そういえば、昨日髪を切りに行ってきた。この前は予約取れなくて違うところに行ってしまって、三ヶ月ぶり三回目のところ。美容院って結構ぐいぐいくる人が多くて苦手なのだけど、二回目の時に、ここで良いかなと思わせてくれたお姉さんが今回も切ってくれた。

バリバリっていうよりは素朴な感じで、キャラが全然濃くない。

 

2回目の時は面接間近の時に行って、いい感じに切ってくれたし、会話も気構えなかった。そうして、今回面接どうでしたって聞かれて、3ヶ月隔てても覚えてくれているのかって。プロとしては当たり前なのか、たまたま僕の毛質が独特なのかは分からないけど、それもあってか、なかなか打ち解けて話せたと思う。

 

僕そのものはなんだか開けてきているという観察。

あまりパンパンキャッチボールをするわけではないけど、他人が投げたボールはちゃんと受け止めて、相手に取れるようなボールを投げるというコミュニケーション。

本の話になって夏目漱石出すとは我ながら暴挙だったような気がするけど、なんとか掴んでくれた。

 

読書が趣味ですってボールを投げて、個人的に一番返しにくいボールって、好きな作家は誰ですかっていうやつ。かなり当たり前のコミュニュケーションの技法で、こう来たらこう返すっていうマニュアルがありそうなものだけど、僕からすると、好きな作家が明確に挙げられる層って、かなり浅めのところだと思う。5段階換算なら2くらい。

 

大学時代だったら、村上春樹とか森見登美彦とか江國香織とか美味しいコーヒーの作り方シリーズの人とか大崎善生とか本多孝好とか伊坂幸太郎とか有川浩とか、具体的に挙げていたと思う。他の人は知らないけど、そのうち好きな作家がどうとかいう問題ではなくなる。

沈んだ気分の時には太宰治とか村上春樹が読みたくなるし、SF気分に浸りたいなら夏への扉とか時計じかけのオレンジとかアンドロイドはなんたらとかだし、っていう、日常のバイオリズムを語るくらい他人に主張するのは難しい。

 

おすすめありますかっていうのも結構たいへん。

浅い時だと、自分が好きなものをおすすめすれば済む話。深くなっていくと、この質問の無意味さが分かってくる。おすすめするためにはその人の読書遍歴とか諸々の聞き取りが必要になってきて、これはもはやプロの仕事だろうって。司書さん。

 

                                                                                                      

そうして。

この日記は何処に向かうのか。

 

そういえば、京極夏彦さんの1冊目やっと終わった。これをミステリーとしていいのかっていうのはちょっと疑義がある。何トリックなのかっていったら叙述トリックなのだろうけど、普通の人は納得できなさそう。脳が辻褄を合わせるために存在する死体が見えないようにしたって、なかなかアクロバティック。

 

一貫した人格っていうのが脳の辻褄合わせの結果でしかないっていうのはどれくらいの人が納得できるのだろう。あぁ一種のファンタジーとして読むなら当人には取り込まれないのか。取り込まれないっていうのは、要は現実はもちろん、精神世界にすら影響されないっていうこと。僕は割とありそうなことだなって読んだ。呪いの解釈とか面白い。

 

人格の一貫性に関して、他の本なのだけど、人が新しいことを躊躇するのは、今までいきてきた過去の自分を無駄にはできないからだっていうのがあった。年を取るほど過去が重くなるみたいなのも。なるほどって。これはある意味自信の弊害的な側面といえるだろうなって。

 

そうして、そろそろ最後。

 

僕は自信なんてものは持ち合わせていないけど、過去の自分はちゃんと認識している。それでも溢れてしまったものが無意識に収納されているっていう解釈。一瞬でさえも人は外界のすべてを意識することはできないけど、感覚器官は一瞬一瞬で膨大な情報を採り入れている。

 

過去に報いるのは過去の惰性で生きることとは違うと思う。

他の人の過去の自分は知らない。未来にどうありたいかっていう志向が次の時系列で言えば過去になるから、そういう風に考えてみるといい。

 

僕は進んでいないみたいなことを書いたけど、そうでもなかった。

勉強とされていう領域で、いちいち文章化することを試みている。これは過去の自分ではできない。まず、パソコンが無かった時系列もあるし、あったとしてもタイプが遅いから。

 

で、僕の過去は自分ができなかったことができるようになった未来の自分を求めているから、自分は一切損なわれていない。別にこれを成功体験とか自信とかっていう二次情報にする必要はない。

 

あとは、思考の枷が外れてきている気がする。

今思えば当たり前に考察しても良いことが過去にはできなかった。視界が広がったとか経験値が増えたからってことではなくて。

 

生きているだけで視界が広がるなら誰も苦労しない。

視界は普通は一定で、時系列でその視界が流れていっているだけ。

 

 

そういう意味でいうと、さっき現恋人さんをナチュラルに尊敬した。

自分の中の当たり前を覆すっていうのはかなり難しいから。

 

僕は自分の中に当たり前を作っていないから人の影響はすぐ反映されるから、特に摩擦はないのだけど。

 

人と人の影響とはなんぞやって言ったら、それが現実化するかどうかに係る。

僕の場合は、水回りを筆頭に部屋が綺麗になってきているとか。もちろん自分がしたことだけど、これを自分の功績にするのが成功体験で、他人の功績にするのが影響なのかなって。

 

まぁいいや。

 

長居し過ぎた。

 

 

おしまい。