解放論
あまり言葉が出てこないけども、まぁ良いか。
今晩は少しだけ奮発した。
広告の品の切られてないかつおのたたきを買って、自分でタレ作った。みょうがとねぎもないし、生姜もにんにくもチューブだけど、美味しかった。あとは冷凍してあった豚しゃぶ肉を茹でてキャベツの千切りとのサラダ。昨日の残りの鶏肉も入れたら肉づくし。
さておき。
まずは、試験の結果が細かく返ってきた。苦手だと自覚していた科目が良くて、何も意識してないところが悪すぎた。何をすれば良いのかが分かるだけ良かったという感想。はっきり言って虫が良すぎたということ。何が評価されるのかっていうのもなんとなく分かった。ちゃんと形式に沿ってないといけなくて、形式すらできていない科目の評価が悪い。
全然凹んではいない。
もともと自分が足りていないことは知っているし、どう足りていないのかが具体的に出されるとありがたい。
ともあれ、なんにせよどうしようもない自分の欠点は、気づくのが遅いということ。
そりゃあ誰だって遅いけど、僕の場合は自分を客観的に評価して気付いてもおかしくないだろうっていうところ。
これは去年くらいに人から言われた。
色々考えているだろうけど、根っこが死角になっているからどれだけ考えても100%にならないって。上限が60%。 っていう意味がなんとなく分かってきた。能力も知識もさほど変わる訳がない。何が変わってきているかって言うと考え方しかない。
もっとそもそもまで考えるとか、観念に上限を決めないとか。
自分の上限を決めないっていうのは個人的にはやっているけど、他人から見た自分の観念を覆すということはやってきていない。ここの主観のずれが摩擦になってエネルギー消費になっているのだと思う。
もっと主観で生きていいっていう感覚になりつつある。
それで拒絶されたらそれまでで、別に世界はそこだけじゃない。
素の自分は常識的観念を持ち合わせていないから、解放すると大変な気もするけど。
主観で生きるっていうのは、僕の観念では他人を押しのけるではない。
例えば満員電車で他人を押しのけて座るとか、誰かを押さえつけて自分を保つとかは主観ではなくて動物なだけ。
ここで社会が出てくるのだけど、人の考え方ってどうあっても社会的規範からは離れられない。社会から外れているっていうものさしも社会っていう基準がないと成り立たないし。
社会学の家族論のところを読んでいるのだけど、家族に対する考え方も時代によりけりなんだろうなって。親は子供に愛情を感じるのも子供が親を敬愛するのも自然だっていうルール付けのせいで、そこを自然に感じられなかった人たちはのけものになった。
ルールが外から決まると、それを当たり前にできてしまう人っていうのは多い。
犯罪とかで当たり前に外れられるっていうのも系統としては同じ。
と、思うのだけどどうだろう。
あまり会話で挙げたことがないから分からない。
それで割を食ったのは懐かしい。
結局のところ、当人の世界はどうあっても自由ではない。完全な自由があったらきっと途方にくれる人がほとんど。不自由だから欲求が生じるわけで、その欲求で商売とかの取引関係が成り立つ。
要は人って、自分の社会の中でしか他人を捉えられないってこと。
この人は内側だ、この人は外側だっていう選別もあるだろうし、そもそも社会を前提にしか考えていない。
例えば震災に備えるっていう自衛の感覚はあるだろうけど、そんなとき法律はまかりとらない訳で、その瞬間にどう振る舞うか。っていう有事のことを考えたとしても、僕は多分自分のことは優先させないだろうなって思う。
とういう感じで、僕の地は完璧に社会とずれている。
人間関係もそう。
人って基本的に自分と比較してしか相手を見られない。違うって手をあげられる人が居たら嬉しいけど、そこまで離れられないだろう。
僕が動く時の視点って純粋な興味しかない。
その純粋な視点を社会的なところが制限しているって感覚。
酔っ払っているから解放しているっていうのも1つの正解だけど、本当はあまり変わらない。
多分起きたら大変恥ずかしい思いをするのだろうけど、別にそれはそれでいい。
僕は、相対的に人を見ないというものさしは絶対。
おしまい。