硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

読解(2

 

 

冷奴にカットトマト缶をかけてほんだしと醤油。トマトの味が利いていて美味しい。メインは変哲のないささみともやしとキャベツの炒めもの。副菜その2は、ひじきとえのきとしめじとれんこんの煮物。隠し味というか味付けは醤油と砂糖とゆかり。れんこんとゆかりは良く合う。栄養価も高いらしいけど、れんこんは個人的に使い勝手があまり良くない食材の部類。あまり頻繁には買えないし。

 

もっと使えない部類ではイモ類。でんぷん質だから米と被る。栄養も高いらしいけど、なかなか買わない。じゃがいもならまだおかずに使えるけど、さつまいもはもっと大変。甘みが強すぎるものは日常で使いにくい。実家から来たのがまだ残っているのだけどどうしよう。同じ系列でいうとかぼちゃもそう。

 

 

さておき。

 

 

今日は、相続法の改正についてみていた。

知識自体は専門家がいっぱい書いているからそっちを見るといい。毎年10月1日に六法が一斉改訂されるのだけど、今年のポケット六法は法改正が盛り沢山だった。働き方改革関連法も気になるところだけど、まだ全然読めていない。労働基準法とかかな。

 

法律っていうのは、改正されても実際に効力が生じるのはラグがある。施行っていうのだけど、債権法改正より相続法改正の方が早かったみたい。債権法改正は社会現象になるから準備期間が必要なのだろう。

 

法律っていうのは外的なものさしだけど、これが変われば内的な価値観も変わっていく。僕が法律を好きなのはこういうところなのかも。ちゃんと意図があるってところも分かりやすいとも言える。

 

ともあれ、相続って先代の財産を引き継ぐものだけど、そもそもこういう制度がどうして決まったのかっていうのもよく分からないような。士農工商えたひにんが世襲制だった名残っていうことなのだろうけど、それならもう身分の世襲制とセットだっていう説明は成り立たない訳で。

 

そういうものだってしてしまえばそれを前提に考えられるのだけど、何か不自然を感じてしまえばどうしようもない。今回の改正は、配偶者居住権とか遺留分とかもろもろで相続人に厚くしているようだけど、実際どうなのだろう。高齢者である配偶者を保護するという名目だけど、トータルで考えたら、法律婚制度を厚くするっていう、ある意味時代に逆行する制度なような。配偶者控除の年収も上がったり年収一千万以上だと控除がなくなったり。

 

っていうところで考えていくと、法律婚制度の下がった求心力を上げていこうという意図なのかなって。子供に厚くじゃなくて高齢者に厚くってなったっていうことは将来の日本を見据えた制度改革ではないということのように思える。

 

もちろん知らんけど。

でも、法律を作るのも所詮人間だから、そこには思惑も穴も必然的に在るもので。

 

そうして、法律とものさしの話。

相続制度との関係でいうと、法律上で繋がった配偶者とか子供には勝手に自分の財産が引き継がれると思うからきっと気にしなくなる。でも、仮にこの制度がなかったとしても他の方法で代替できるから法律に後ろ盾された血の繋がりが必然というわけでもない。

 

価値観が先か法律が先かっていうのはわかりにくい部分もある。

例えば刑法ならどちらかというと道徳の方が先だから、なぜ悪いのかって言われても悪いとされているからっていう風に説明できてしまう部分が多い。でも、刑罰っていうのはその悪さを分かっている人にしか意味がなくて矯正できない人格に対しては意味を持たないっていうのもある。だから僕は個人的には死刑制度はあって良いというものさし。

 

刑法で難しいのは自殺の扱い。自分を殺すことは殺人なのかって問いは、殺人の199条には人を殺したものはって書かれていて、人っていうのは自分も含まれるのかっていう解釈がまず問題になる。おそらくこの条文ができたころには自分を殺すっていう観念がなかったのだろうなって。暫定的な主流の説としては、罪だけど犯人が死ぬから罪には問えないってことだったかな。だから自殺幇助とかが罪になるっていう。

 

 

わかりにくい例としては道路交通法とか。

信号は守らないといけないっていうのはルールだけど、そのルールは道徳なのかっていう問い。道徳の定義もよく分からないけど、僕の捉え方だとそうしてしまえば説明不要になるマジックワードってこと。決まっているから決まっているのだって。

 

運転者に関してはそんな説明は要らない。どう捉えようが国家からの制裁があるから守るしかない。別に守っていることが正しいとかそういう次元とは別の話。

 

例えば自分に子供が生まれた時どう説明するだろうって想像すると、かなり難しい。

僕が育ったところはど田舎だったから、運転者もほとんど顔見知りでほとんど車は通らなかった。

 

言ってしまうと、青信号でも車が通りうる限り安心してはいけないってところまで教えなきゃならんだろうなとは思う。ってなると本当に果てはないのだけど、世の中の現実的な親御さんはどこで区切っているのだろう。これも経験則の話なのだろうか。自分が今までそれで生きてこられたからってそれをそのまま子供に伝授するって無警戒過ぎない?

 

知らんけど。

 

やれやれ。

ようつべも広告だらけだなぁ。

 

言葉とかの話の続き。

視界もずいぶん広くなった。ハッピーとか安心とかは僕には贅沢過ぎるし、それがなくても心身が動くっていう風に調整してきたのだから、それで良いのだってしてしまう。

 

他人のものさしに揺るぎ過ぎたところが問題だったんだろう。

エンパスだから関わっている人のものさしについて無駄に考えてしまう。相手は相手のものさしの中でしか僕のこと考えてないのに。

 

感受性がやたらと高いのは5人に1人っていう統計だけど、体感では20人に1人くらい。

人の気分に影響されてしまうってところまで広げればそうなのだろうけど。

 

 

僕の経験則で言葉を発することができなくなった状況を統計すると、相手は僕の話を聞いてくれないだろうなって思ったときにそうなる。別に保身なんてないのに何を話そうと同じ所に収納されるんだろうなって思うとそれ以上発話できない。それが他人に期待していないことだって言われたら、そうだろうねって答えるしかないけど、人は他人の枠をそこまで広げていないように思う。

 

 

書きながら読み返しているとリズムが取れない。書きながら他の人の価値観がよぎるのも良くない。もう少し書きたかったけど、どうやらここでおしまいらしい。

 

雨はいつ降るのかな?

 

 

おやすみ。